2010年4月 3日

交流しない人がいない飲食店

毎年恒例の花見まであと12時間。今回13回目。ついに干支で一回りしたのか。社会人になってから12年過ぎたということだ。社会人らしいタイミングは非常に少ない気もするが、まぁいいか。

いろいろ思うことあり、2日間だけだが、花見の勧誘のため直接営業をしてみた。限られた時間に会えた人だけだが、ほぼすべての人と話をしてみて、非常に充実した時間が過ごせた。

改めて気づかされたことは、

・パクチーハウスで多くのイベントをしていることを知らない人は多い。そして、知らないのは関心がないためではなく、ただ知らない。そして、話をすると多くの人が面白そうだと笑顔になる。
・多くのイベントをしているのを知っている人も、自分の関心の範囲だと捉えていないケースが多々ある。イベントを開催している意味を語りかけることで、大きく心を動かすことができる。
・店の人がしゃべりかけると喜んでくれる。

という3つのこと。

思えば、オープン当初、来パクした方全員と話ができるかどうかといつも思っていたものだ。今でもちょくちょくお客さんと話はするのだが、店にいないことも多く、割合はかなり減ってしまっていた。

スタッフに多くを任せている。そして、「交流する飲食店」や「相席」がメディアに並び、そういう雰囲気ができてきたよなと思いこもうとしていた。でも、実は、まだまだ一部にすぎない。そういう店であることに気づかずに来て、知らぬまま帰る人がいるのだ。

先日、スタッフから聞いた話で、一人で黙々と食事を食べていて、帰り際に「交流が起きませんでした。普通のレストランと一緒です」とおっしゃったお客さまがいたそうだ。そのときは状況も分からなかったし、自分から何もしないと難しいですよねとつぶやかれ「まあね」と同調したが、それは僕のコンセプトからすると間違った考えだったと思う。

僕が思い描いているイメージ。それは、誰もが自然に話をしている店内の様子。相席や、隣のテーブルと声を掛け合うのはもちろん、遠くの方で旅の写真を見せあっている人がいれば、近づいて行ったり。レストランにおける振舞いの常識を崩す、文化の変化が必要だ。いくつかの仕掛けも必要であろう。でも、それがオープン前に思い描いていたことであり、今でもそれを目指しており、夢物語でなく現実に起こりうることだ。

交流する飲食店とは、「交流することができる」のではなく、「交流しない人がいない」飲食店である。

カタリストはそれを促進する人である。まずは店側がそれを用意して(スタッフがカタリストになるということ)、いずれはお客さんのうちの何人もがカタリストになっていく。

今のところ、上に描いたイメージは僕だけが持っているのだろう。お客さんとの会話の中で、伝えきれていないことが多くあることに気づいた。そして、最近起こったさまざまな事象を分析すると、スタッフにも「伝えたつもり」になっていることがあるのだと思う。だから行動が必ずしも伴わない。

チーフカタリストとしての仕事を、どのようにすべきか、非常に迷っていた。しかし、この度イメージを改めて明確に思い描くことで、再び見えてきたものがある。それを実行して、スタッフとお客さんからエネルギーをいただきながら、僕の頭の中にまだ閉じこもっていることを、パクチーハウス東京の店内に表現したいと思う。

パクチーハウス東京は、日本パクチー狂会という「狂った」コミュニティから派生してできたものだ。パクチー協会では断じてないし、お客さんと接する人が「型リスト」ではいけない。クレイジーにならないと。そのために、チーフカタリストの僕がもっともクレイジーな人間として、店を"荒らす"。

さぁ、花見だ!