カルカッタ→イスタンブール(灼熱の60日間)

イランへの道

「まだまだ旅は長い。健康が第一だ」
そう思った僕は、Rs50を奮発してエアコンバスを選んだ。出発まで少し暇があったので、チケットカウンター横にあるベンチでこれから乗り込む「世界三大地獄交通機関のひとつ」とも噂されるバスについて案じていた。周りでは斜視のために視点のあわない兄弟がはしゃぎながら、ときおり僕の方を気にしている。隣のアフガニスタン人のおっさんは危ない目をして「ジャパン、これ見ろ!」といいながら、「にんじゃ」と書かれたマッチを見せてくれる。いつも変わらぬ彼らの明るさは、僕の些細な不安を吹き飛ばしてくれる。さぁ、乗り込もう。

バスの中は極めて快適であった。「本当に」エアコンが効いていた。バスが走り出すと、自分が現実の世界にいることが信じられないほどだ。涼しい車内。それはガラスを挟んで向こう側にある砂漠の世界が目の前にあるブラウン管にうつされた映像であるかのような錯覚を起こさせる。道路はひとやトラック、タンガー(馬車)やリクシャーでひしめいており、「砂漠の国パキスタン」というドキュメンタリー番組を見ているようだった。渋滞がひどく、バスは遅々として進まなかったが、今までの融けるような暑さの世界から一転してクーラーの効いた世界に入り込んだことが、無責任ではあるがこの上ない幸せであるような気がしていた。

市外にでると、渋滞は一気に解消され、今度はチキンレースの始まりだ。もうずいぶんと眠くなりかけていたので、初めはうとうとしながら、「どうしてこんなにスピードを出したり急ブレーキをかけたりするんだろう」と不思議に感じていた。しかし、その疑問は外を一瞥するとすぐに解けた。パキスタンの旅行経験のある旅人の話やパキスタンについてかかれた紀行文の類が一気に頭の中によみがえってきた。「パキスタンのバスは暴走する…」。僕のバスも例外ではなかった。対向車や道路の幅などお構いなしに、常にアクセル全開でとばしまくる。ぎりぎりまでハンドルは切らず、死の一歩手前でようやくハンドルを切る。乗客たちの中にその遠心力に耐えられる者はおらず、焦りながらも、みなが一斉にガラスに頭をぶつけるのを見て思わず笑う。しかし僕とて遠心力の例外ではない。反対側にハンドルを切ったとき、激しく頭を打ち付けた。「ゴン!」 どうせなら抜かれる方のバスに乗りたかった。ゆっくり走ろうよ。

エアコンバスは確かに涼しくて快適ではあったが、「禁煙」という概念のない人々の中でバスを締め切るのは、嫌煙者にとってはつらいことになる。バスには途中から乗ってくる人が多く、このころ車内には文字通り身動きがとれないほどの人間が乗っていた。その中でどうやってたばこに火をつけ、また消すのかはわからないが、乗客の5人にひとりくらいはそれでも煙草を吸う。車内には煙が充満し、目の前が白くなるほどになった。「どうにかしてくれ!」心の中でそうつぶやくと、車掌のような人がなにやら叫びだした。意味は分からないが、周りがみんな窓を開け始めたので、そういう旨のことをいったのだと思う。煙から逃れたいという思いは見事に通じた。しかし…。エアコンバスはもはやエアコンバスではなくなっていた。これからイランまで、どんなに乗客が辛そうな顔をしようと、運転手自身が汗だくになろうと、決してエアコンはつかなかったのである。

バスの暴走とうだるような暑さで、バスはいよいよ「世界三大地獄交通機関」の様相を呈してきた。大変なことになりそうだ。でも、なぜかうきうきしてきた。不安でどきどきした気持ちと心の底からわけもなく浮かんでくるこのうきうきした感情で、僕の心臓は激しく鼓動を繰り返した。身体のすみずみまでが興奮しているのがよくわかる。そして興奮のあまり(?)、僕は居眠りをしてしまった。 …僕はちょっと、自分の神経を疑った。

とてもよく眠った。はっとして起きてみると周りは暗く、なんだか騒がしい。またも車掌が何かを叫んでいた。彼は僕らのリーダーだ。目が覚めきらず、状況がつかめないまま他の人々と一緒にバスを降ろされた。周りの人にどうしたのかを聞くと、ただ一言、「プロブレム」。何かアクシデントだろうなと思いつつ、周囲を見てみると、トラックがごろごろ横転している。道がとても悪く、横転車が絶えないようだ。僕らのバスは幸い、横転はしなかった。でも、その代わりに、道をはずれて一段下がった砂地に前輪がはまり込んでしまっていた。運転手はアクセルをめいっぱい踏み込むも、タイヤは砂の上で空回りするばかり。いくらエンジンが唸っても、動力は砂に吸収されていた。

大変そうだなぁ。僕は頭上に浮かぶ満天の星空を見ながら他人事のように考えていた。まるでプラネタリウムのようだ。もともとプラネタリウムは空に浮かぶ星の模型として作られたものであるから、星空をプラネタリウムに例えるのは逆説的でおかしいのかもしれない。しかしこの時の「完璧な」星空は、いつも汚染された空しか見ていない僕に、それがまるで作り物であるかのような錯覚を起こさせた。澄んだ空。そしてまさしく吸い込まれそうである。目の前で起こっているバスのアクシデントなんて何でもないちっぽけなことのように思える。

「さぁ、みんなでバスを押すぞ!!」リーダーが大きく叫んだ。男たちはバスの周りに集まり、いっせいにバスを押す。僕もその中に加わり、派手に飾られたバスのボディに体当たりする。 …エンジンの力にみんなの気持ちが伝わると、バスは少しずつ動きはじめた。そして、バスが完全に車道へと戻ると、人々は歓喜の声を上げ、なぜか僕に握手を求めてきた。「ジャパニ、オーケー?」

バスはその後、何事もなかったかのように走り続けた。人々もさっきまでと同じようにぎゅうぎゅう詰めに席に腰掛け、やがては眠りについた。砂漠の夜の涼しい風と窓から入ってくる砂埃に吹きつけられながら、僕もいつのまにかねむっていた。

夢の中ではパキスタンのさまざまな体験がよみがえっていた。そしてその思い出に浸りきった頃、バスはゆっくりと停車した。

その時の国境で唯一のツーリストだった僕は、出国管理の役人に建物の中に招待され、冷たい水をもらった。それは決して清潔な水ではなかったが、パキスタンの暑さに苦しむ僕を助けてくれた人々の優しさと一緒にその水を一気に飲み込んだ。 ありがとう。

感謝の気持ちをかみしめながら、目の前に立ちはだかるゲートをくぐる。ようやくイランだ。

「洗礼」へつづく
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