第四章 近世の相撲 ―芸能としての相撲―
第一節 概観
日本史では、中世と近代の間の時代区分を近世と呼んでおり、日本では徳川幕府成立から、明治維新までの江戸時代がこの近世にあたる。近世における相撲は、芸能としての確立の一言につきる。これまで見てきたように、中世後期から、勧進興行の形態をとって、相撲興行が寺社を中心に広く行われていた。また、戦国時代には、好角家の大名たちは多くの専門的職業相撲人たちを召し抱え、彼らに禄を与えていた。これらの職業相撲人たちの流れを汲む相撲人たちによる相撲が、「故実」という相撲を支える様式の体系によって彩られ、江戸・大坂・京といった消費文化が生まれていた大都市で、洗練された芸能として花開くのが、この近世という時代なのである。
中世の末期から近世の初期にかけては、各地の寺社で勧進相撲興行がさかんに行われていた。しかし、この勧進相撲は、寺社の造営・修繕など、「勧進」本来の趣旨にそった理由で、寺社が主導で行われており、後のような定期的な興行を打つ組織のようなものはなかった。具体的には、勧進を行う寺社が職業相撲集団を雇い入れてかんじんがた勧進方とし、近在の相撲人を集めてよりかた寄方として興行を行っていたと考えられる。(1)
前章の第二節で詳しく述べたように、戦国時代の末期になると、戦国大名による相撲人の召し抱えが盛んに行われた。織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次は特に多くの相撲人を召し抱えていたことは前に述べた。その後江戸時代になり、幕藩制度が成立すると、各地の藩主たちは競って有力な相撲取(相撲人と同じ)を召し抱え、「相撲ぐみ組」「相撲しゅう衆」と呼ばれる集団を組織していた。他にも、加賀前田家や紀州徳川家、越前松平家、わかさおばま若狭小浜酒井家などといった大名は、相撲取を多く召し抱えていたとされ、彼らお抱えの相撲取どうしの対抗戦もおこなわれたようである。
そのような状況で、幕府は、一時期は武家屋敷の外での相撲を禁止する方針をとっていた。その理由は、池田によると、「職業相撲による傷害事件がたびたび起こるため」(2)であるという。鎌倉幕府が辻相撲を禁止したときと同じように、相撲は治安の悪化をもたらしていたのだろう。慶安元(1648)年2月には、武士抱えでない勧進相撲を禁止するふれがき触書が出され、さらに同年5月には辻相撲の禁令も発せられた。また、寛文元(1661)年にも「町中」での勧進相撲の開催が禁止された。この時期は、村落の寺社などでは勧進相撲の興行が行われていたようである。禁止の理由はあくまでも都市部の治安悪化の防止であったのだった。
このように、都市では武家屋敷以外の場所での勧進相撲が禁止されていたので、職業相撲人たる相撲取は、そのほとんどが諸藩の召し抱えであったと思われる。藩抱えの相撲取による対抗相撲などが行われるようになると、どの藩でも、勝利によって藩の評判を高めるため、相撲取たちに一層の稽古と精進を要求し、このころ相撲技術の著しい発展がおこったと言われる。相撲を取る場所としての「土俵」もこのころにはじめて発明された。それまでは、相撲場には境界がなかった。「ひとかたや人方屋」と呼ばれる、控えの力士、見物人らの人垣が境界だったのである。土俵の成立により、格闘技としての相撲に、相手を土俵の外に出せば良いというルールが次第に加わるようになる。相撲技術の大幅な革新が起こったのは想像に難くない。
そして時代は元禄文化の花開く18世紀に入り、次第に、三都勧進大相撲が芽生えてくるのである。
第二節 三都勧進相撲の成立とその発展
江戸幕府が都市部での勧進相撲を禁止する方針をとっていたことは前に述べた。しかし、18世紀に入り、幕府はその方針を転換し、勧進相撲の一律禁止から、条件付きで興行を許可するようになる。その理由として、新田は次のような社会的背景を挙げている。
「物資流通の焦点となった京坂地域を中心に、社会的剰余が蓄積され、消費文化が一気に開花した。それとともに、道・橋・運河などの修造や沿岸地域の埋め立て開発、さらには町地の経済活動の振興など、社会資本の整備が急がれることとなり、公的な投資を補完する方法として、消費文化を背景とした「勧進」がふたたび脚光を浴びることとなったのである。」(3)
元禄12(1699)年、京のおかざきてんのうしゃ岡崎天王社修復のための七日間の勧進相撲が行われた。これが京での勧進相撲が復活してはじめての相撲であるとされている。大坂ではそれよりはやい元禄4(1691)年に町中で勧進相撲が行われた例があるという。
江戸では、貞享元(1684)年に深川八幡宮で晴天八日の勧進相撲興行が行われたと『相撲家伝鈔』にある。そのときに、いかづちごんだゆう雷権太夫以下が15人が株仲間を結成して寺社奉行に興行の許可を得たのが、後の相撲年寄の原型であるという。ちょうどその頃、財政を圧迫していたお抱えの相撲取を諸藩が放出しはじめたこともあり、相撲取の供給にも問題はなかったようである。
この、興行主体が寺社奉行に相撲興行の許可を申請し、その許可をもって行われた興行を、一般に公許勧進相撲という。これらの相撲興行は、町人の興行師たちによってとりしきられていた。相撲取集団が主催の興行が一般化するのは、少し後になるのである。
18世紀も中ごろになると、申請にはほとんど許可がおりるようになり、江戸・大坂・京の三都において勧進相撲興行がほぼ定期的に開催されるようになった。この頃から、興行の主体が寺社や町人の興行師から、相撲取出身のとうどり頭取(年寄)に変わり、番付も前の興行の成績をもとにつくられるようになったという。そして、江戸・大坂・京の三都で、春は江戸、夏は京、秋は江戸と大坂で、年に4回それぞれ晴天十日(4)の相撲興行が定期的に行われ、「四季勧進相撲」と呼ばれるようになる。
三都勧進大相撲の成立である。
この三都勧進大相撲は、三都にそれぞれ相撲興行を行う団体があるわけではなく、諸国の相撲取集団を集めた大規模な合併興行としての「大相撲」が年に4回行われる体制である。勧進元である年寄は、江戸と京坂にそれぞれ集団が存在していた。開催地に関係なく、全国的な興行としての「大相撲」が年に数回存在していると言う点では、現在の大相撲と同じであると言える。
このころの相撲興行は、新田によると、以下のようなものであった。
「観客の興味関心や要求のあり方も、現代におけるそれとはいささか異なる。たとえば大坂の興行では、大坂を活動の中心とした相撲取が善玉、よそ者が悪玉となり、江戸・京においてもそれぞれにまた善玉・悪玉の位置付けができてくる。善玉中の花形には花をもたせるような操作も、興行政策上の暗黙の了解としてうまれてくるのである。たとえば江戸を中心に活躍した谷風と、もともと京坂で修行時代を送った小野川(倉竹註:5)との対戦では、江戸では谷風、京坂では小野川がそれぞれ善玉になって、敵地での勝負よりも分のいい結果を残していたりする。この点も現代のプロレスと似たところであり、花形同士の取組では双方にキズがつかないように引分・あずかり預などといった勝負なしの結果が目立つようにもなる。観客も、かならずしも真剣勝負を期待するのではなく、そうした周辺の事情を承知のうえで、土俵上のストーリーを「芸」として楽しんでいた節がある。」(6)
三都勧進大相撲が、芸能として確立していたことをうかがわせる一文であると言えるだろう。近世における相撲は、現在の大相撲よりも、芸能色が強いものであった。近世は、芸能としての相撲が花開いた時代であると言えるのだ。
註
(1)第三章 第三節を参照
(2)池田 [1998]
(3)新田 [1994]、190頁
(4)第五章註(13)を参照のこと。
(5)谷風・小野川はこの時代を代表する力士。ともに横綱。
(6)新田 [1994]、190頁
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