第三章 中世の相撲 ―武芸としての相撲と相撲興行の起こり―

第一節 概観

古代日本相撲史を代表する相撲節の衰退と廃絶と時を同じくして、社会は武士の時代を迎えた。日本史上はじめて武士による源氏政権が誕生した鎌倉時代、足利氏の室町時代、戦国時代とその帰結としての織豊政権の成立までを一般的に日本史では中世としている。
中世の前期における相撲は、古代の相撲がほぼ相撲節のみによって語られるのと対照的に、端的に言って、それぞれ別の担い手による、性質の異なる2つの相撲が存在していた。
ひとつは、武士の活躍にともなって、武士たちによって担われた、武芸・武術としての相撲である。これは、あくまでも、「武芸」「武術」であって、「武道」ではない。武道は近代の発明なのである。
そしてもうひとつが、相撲節相撲人の流れを汲む、専門的職業相撲集団によって担われた、寺社の祭礼に供される奉納相撲とその発展としての勧進相撲である。勧進相撲と言うと、近世に盛んに行われた営利勧進大相撲が有名であるが、中世の勧進相撲は、完全に芸能化した近世の営利勧進大相撲とは異なり、寺社や橋梁などの建立・修復のための資金を調達するために、芸能を供して人々の見物料を集めるものであった。これらはともに相撲節相撲人の流れを汲んだ職業相撲集団によって担われたと考えられている。
一般的に、中世日本は「武士の時代」とされているため、中世の相撲史においても、「武家による相撲」という側面ばかり強調されてきた観がある。しかし、もうひとつの流れである、職業相撲集団による奉納相撲・勧進相撲が、近世日本の相撲を代表する営利勧進相撲に直結していることを考えれば、中世を単純に「武家による相撲」の時代と言いきってしまうのは危険であろう。
中世前期は、「武家による相撲」と「職業相撲集団による相撲」が並立して行われていた時代なのである。そして、中世も後期になると、武士によって行われる相撲の影は薄くなり、職業相撲集団による相撲は、寺社の祭礼などに奉納されるだけでなく、権力を持つ武家の鑑賞の対象としても発展してゆく。奉納相撲・勧進相撲によって民衆の鑑賞にたえうる芸能として洗練されて行った相撲は、武家の権力と財力による後ろ盾を得て、その後近世の営利勧進大相撲の成立を迎え、芸能として確立するのである。

第二節 武家と相撲

前節で述べた2つの相撲のうち、ここでは「武芸・武術」というカテゴリーに入るものとして認識されていた相撲の実際を、その担い手である武士、および武家と相撲の関わりから見ていきたいと思う。
平安時代も末期の12世紀ごろになると、相撲節で相撲を奉じていた相撲節相撲人が、特定の家の出身者に偏り、いくつかの地方武士の家柄から、「相撲の家」として相撲人を多く輩出する家が出現するようになったということは第二章第四節で述べた。ただ体力・膂力のみをかわれて徴発された農民の若者と違い、彼ら「相撲の家」から出た相撲人たちは、その相撲に対する専門性を買われ、院をはじめとする中央権力との結びつきを強めたり、郡司などの役職を獲得したりしていたようである。つまり彼らにとっては、相撲を取ることが、社会生活を営んで行くことに不可欠だったと言えるのである。後期相撲節に召された相撲人には、免田の給与(1)も行われており、相撲節相撲人の専門化を裏付けている。
では、これら専門的になった相撲人は、彼らの社会生活の中で重要な意味をもっていた相撲節の廃絶にどう対応したのだろうか。その一つとして考えられるのは、鎌倉幕府に御家人として従うなど、完全な武士として、武家の社会に適合していったということである。前述したように、もともと後期相撲節で活躍した相撲人たちは、そのほとんどが地方武士の出であった。膂力にすぐれた彼らは、「武勇」の人として、まだ戦乱がおさまらない時代には活躍したに違いない。
また、相撲人としての専門的な職能を持って寺社などと結びついたということも考えられる。芸能として「観られる」相撲の発展の歴史は、相撲が本能的な格闘から離れ、高度に洗練された技術や様式が発展していく歴史でもあるのだ。この時代において、高度に洗練された相撲の技術や様式を持っていた者は、彼ら専門的相撲人をおいて他にはない。しかしこの点に関しては、次節でくわしく述べることとして、まず武士としての相撲人と武芸としての相撲を考えてみたい。
もともと、全国各地から膂力にすぐれたものをえじ衛士・さきもり防人などとして登用するための「全国武芸大会」的な要素をもっていた相撲節では、神事としての重要性が強調されるとともに、武芸を鍛錬する場としても重視されていた。前期相撲節が行われていた天長10(833)年には、「相撲の節はただ娯遊のみにあら非ず、武力を簡練すること最もこの中にあり」という勅が諸国に出されている。
朝廷の権力が強かった時代においてもこうであるから、武士の時代である中世に、相撲が武芸として捉えられていたのは当然であろう。武芸としての相撲を語る当時のエピソードから、その姿を見てみたい。
鎌倉時代の相撲にまつわる話で有名なものに、『曽我物語』に見える、河津三郎と俣野五郎の相撲がある。新田によると、それは以下のようであった。
「若者に相撲を取らせて見物を楽しもうということになり、力自慢の武士たちが取り進み、やぎした柳下小六郎が六番、竹下まごはち孫八が九番とつぎつぎ勝ちぬくほどに、またのごろうかげひさ俣野五郎景久という者が出て、都合三十一番を勝ちぬいた。この俣野、おおばん大番つとめに京にのぼって相撲の経験を積み、三年のあいだ一度も不覚をとることなく、日本一番の名をえた相撲の手だれ。もはや相手に立つ者なしとみえたところに登場したのは、この巻狩のホスト役であった伊東すけちか祐親の嫡男かわづさぶろうすけやす河津三郎祐泰であった。河津は相撲の経験はないがごうりきむそう剛力無双、俣野の両腕をつかんでねじり、膝をつかせてしまう。俣野は「木の根につまづいた」と物言いをつけ、「今一番」をいどんだものの、河津の剛力にこんどは片手で差しあげられ、したたかに投げ伏せられてしまった。」(2)
また、「『古今著聞集』にのせるはたけやましげただ畠山重忠の剛力のエピソードも、頼朝の命によって、ながい長居という東国八ヶ国随一の手だれの相撲人と立ち合った重忠が、力にまかせて長居の肩をくだいてしまった」(3)という話もある。
これらの2つのエピソードからわかることは、「両腕をつかんでねじり」や、「力にまかせて肩をくだく」といった、相撲節で洗練された格闘技としての相撲から離れた格闘技が行われていたことである。そして、両方のエピソードともに、「手だれの相撲人」すなわち専門化された相撲を体得した者が、「剛力無双の武人」すなわち力と実戦経験はあるが、相撲は素人同然の者に、敗北していることが興味深い。
相撲節では、特に後期には禁じ手なども整備され、格闘技としての洗練された形式が確立していた。それらを体得した相撲節相撲人の流れを汲む、専門的相撲人たちの中でも最強の部類に属する俣野五郎や長居が、剛力無双の河津三郎や畠山重忠に「相撲を取って」敗れたというこの話は、実に興味深いことを教えてくれる。まず一点目に、相撲節相撲人の流れを汲む相撲人は、「武芸」として洗練され、特化された相撲を体得していたが、実際に戦場で敵をねじ伏せる、実戦的な「武術」である相撲が、それとは別に存在していたこと。そして、それら異なる2つの相撲が、同じく「相撲」と考えられ、これらの間で実際に勝負がなされていることである。戦乱の時代には、その時代にふさわしい「武術」としての実戦的な相撲が武士によって担われ、それとは分離したかたちで、「武芸」として、ある程度格闘技として洗練された様式を持った相撲が、専門的相撲人によって担われていたのである。
武士たちによって行われていた相撲の実際の姿は、以上に挙げたエピソードから散見することができる。しかし、武家と相撲の関係を語る上で、欠かせない視点がもう一つある。それは、権力としての武家と相撲との関係である。第一章第三節で述べたように、相撲の長い歴史には、上覧相撲と呼ばれる、天皇およびその時々の権力者の前で、相撲が行われることが多くあった。武家政権が連続する中世にあっても、上覧相撲はその時々の権力者の前で数多く行われてきた。
鎌倉幕府をうちたてた初代将軍の源頼朝は、相撲を好んだらしく、『吾妻鏡』には、頼朝が鶴岡八幡宮や熱田神社などの神社の祭礼に奉納される相撲を観戦したことや、武士たちに相撲を取らせてそれを見物したという記録が残されている。三代将軍の源実朝、四代将軍くじょうよりつね九条頼経などもたびたび武士たちを召して相撲を見物したという。また、建長6(1254)年うるう閏五月には、ときの将軍宗尊(むねたか)親王の御所で、執権北条時頼の提案で武士による相撲が行われたと『吾妻鏡』にある。このときの相撲にあたっては、おさだひろまさ長田広雅という、「相撲の家」の一族の者が、「譜代相撲」(相撲の故実に通じている者、の意)であるとして、「勝負是非」を申す(勝負判定を下す)役割を仰せつけられている。
このような上覧相撲に供された相撲は、専門的な相撲人ではない武士たちによって行われた相撲であることが多かったが、御家人武士たちによって貢進された専門的相撲人が相撲をとった事例も存在したようである。
時代が下って、室町時代になっても、上覧相撲はしばしば行われていた。従来の相撲史では、足利将軍の相撲上覧はなかったというのが定説だが、新田によると、六代将軍義教(よしのり)が、ときの管領畠山みついえ満家などの幕府の中核を形成した守護大名たちとともに専門的相撲人による相撲を上覧したという記事が『満済じゅごう准后日記』にあるなど、室町時代にも上覧相撲は存在したという。(4)
その後、中世も末期になると、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次と、当時の最高権力者たちによって、たびたび上覧相撲が催された。この時代になると、もはや上覧相撲は武士の手を離れ、純粋に権力者の鑑賞の対象としての「芸能」的な要素が強かったようである。実際に相撲を取るのはほとんどが専門的な相撲人であったようだ。鎌倉時代の頼朝ら将軍による上覧相撲が、御家人や家来など武士による相撲の見物であったこととは対照的である。このころは、武家、とくに大名など権力者にとっては、「相撲」と言えば「取るもの」ではなく、「観るもの」であった可能性が大である。このころ、武士たちによって、実戦的格闘技、すなわち「武術」としての相撲がどのように行われていたかは興味深い問題であるが、残念ながらそのことを記した資料は見られない。
信長が大変な相撲好きであり、上覧相撲をたびたび催して、その際に京都近辺と畿内から相撲人を召し集めていたことは、『しんちょうこうき信長公記』など著名な書物に見え、一般にもよく知られていることである。そして信長は、こうして集まった相撲人のうちから、特に技量すぐれた者にはちぎょう知行を与えて召し抱えたという。彼らは、鎌倉時代の、相撲人の家柄から出た御家人のように、いわばセミプロ的な存在ではなく、相撲を生業とし、相撲をとって見せることによって信長に仕えていた。完全なる職業相撲人である。この、相撲人を召し抱えるという行為は、信長のみではなく、豊臣秀吉、その甥の秀次、土佐のちょうそかべもとちか長曽我部元親、九州久留米のもうりひでかね毛利秀包などその他の有力な大名も行っていたという。特に豊臣秀次は百人ともいわれる大変な数の相撲人を召し抱え、知行を与えていたようである。
このように、中世も末期になると、権力を持っていた武家は、上覧相撲を通じて、専門的相撲人を召し抱え、彼らに経済基盤を与えていた。これにより、相撲人たちは完全に相撲を生業とする職業相撲集団になるのである。そしてこの、大名による相撲人の召し抱えは、江戸時代に入って諸国で盛んに行われるようになり、、相撲人(力士)たちの生活と、相撲社会を支える重要な経済基盤となるのであった。
以上で見てきたように、中世の武士にとっての相撲は、「武芸・武術」として自らたしなむことであると同時に、専門的相撲人たちの洗練された技芸を鑑賞する、「芸能」であったとも言える。

第三節 奉納相撲から勧進相撲へ

一般的に、中世は「武士の時代」であると同時に、現在の日本文化の底流をなす多くの要素が民衆の生活に登場した時代でもある。前節は、武士および武家と相撲の関わりを論じたが、ここではおもに民衆によって担われた相撲の姿を見ていきたいと思う。
前節で触れたように、平安時代末期の相撲節の廃絶後、相撲節相撲人は主に二つの道をたどった。一つは武士として幕府に仕えるという道。そしてもうひとつが、寺社などと結びつき、相撲の職能を生かして専門的相撲人になる道である。
相撲節相撲人たちは相撲節が行われていた時分にも、相撲節の開催後京に残り、京周辺の寺社の祭礼に奉納される相撲を取っていたと思われる。彼らは相撲節が廃絶し、鎌倉時代になると、その専門性を生かして半ば専門的な相撲人の集団を形成し、京周辺の神社に祭礼ごとに雇われて、祭礼の際に奉納される相撲をとるようになった。この専門的相撲集団は、「京相撲」または「京都相撲」と呼ばれ、地方の大神社の奉納相撲に携わることもあったという。新田によると、建久3(1192)年には、鎌倉のつるがおか鶴岡八幡宮のほうじょうえ放生会(5)の際に、「京より下向」してきた「相撲十人」が相撲をつとめたことが『鶴岡社務記録』に残されていること、また、出雲国のきつき杵築大社(出雲大社)の神事に奉納される相撲も、建長元(1249)年には、村々で費用を負担し、「社相撲」と呼ばれる専門的相撲集団を雇って行われていることなどが、これらの専門的相撲集団が鎌倉時代初期にすでに成立していたことを示す証拠となるという。(6)
中世も後期になると、このような奉納相撲とともに、勧進相撲が行われるようになり、これらの専門的相撲集団の社会的な需要が高まることになった。本章第一節で触れたように、中世の勧進相撲は、近世の営利勧進大相撲とは異なり、寺社や橋梁などの建立・修復のための資金を調達するために、芸能を供して人々の見物料を集めるものであった。
そもそも勧進興行と呼ばれるものは、相撲に限らず、猿楽やくせまい曲舞といった、他の芸能にも見られる興行形態である。もともと、勧進とは、公共性の高い寺社や橋梁などの建立や改修のための費用を集めるために、勧進ひじり聖と呼ばれる僧が勧進帳と呼ばれる勧進の趣旨を書いた巻物を携えて諸国をまわり、人々の自発的な喜捨を集めるものだったが、中世も後半になると、何らかの芸能が供され、その見物料をもって善意の喜捨のかわりにするという興行形態が登場した。これが勧進興行と呼ばれるものである。
相撲においては、15世紀のはじめごろから、この勧進興行の形態での相撲、つまり勧進相撲が行われていたという。その実例をいくつか挙げると、歴史資料に「勧進相撲」の語がはじめてあらわれるのは、『看聞御記』、応永26(1419)年10月、京都郊外の伏見郷で、法安寺造営のための勧進相撲が行われたという記事である。また、『大友興廃記』には、都より相撲人たちが下向し豊後府内(現在の大分市)で相撲興行をおこなったという記事がある。
この当時の勧進相撲は、勧進興行の主催者から集められた専門的相撲人から構成されるかんじんもと勧進元(勧進方)と、地元の相撲人が集まったよりかた寄方の対抗形式で行われていたという。(7)また、取組は勝ち抜き方式で進行し、最後に勝ち残ったものが、「関を取る」と称されたらしい。(8)
その他、この当時の相撲で、注目すべきことは、はじめて行司が登場したことであろう。『信長公記』の天正6(1578)年の上覧相撲の記事には、きせぞうしゅんあん木瀬蔵春庵・木瀬たろうだゆう太郎太夫の名が「行事」(行司)として見られる。行司は、ただ勝敗の判定をするだけの役割ではなく、取組の進行などを取りしきっていたようである。
このような勧進相撲の発展は、京周辺を中心に、専門的な職業相撲集団の需要を高めることになった。そして職業集団は文字通りプロ化してゆき、戦国時代に入ると、前述したように有力な大名に召し抱えられ、相撲をもって仕える者も多く現れた。中世は、神事であり、武芸であった相撲が芸能化し、それを生業にするプロの相撲人の集団がはじめて現れた時代なのである。
最後に、武士でも、専門的相撲人でもない、一般の民衆と相撲との関係を少し書いておきたい。
もちろん、中世に入ると、一般の民衆は、寺社などにおいて奉納相撲や勧進相撲興行の観客となっていたが、当たり前のことではあるが、彼らも武士と同じく、観客であると同時に自分たちで相撲を取っていた。町中の辻において偶発的に集まった人々が、主として自分たちの娯楽のために取った相撲は「辻相撲」、町中から外れたところや野原での相撲は「野相撲」などと呼ばれていた。はやくも鎌倉時代の13世紀前半には、「辻相撲」は治安悪化の原因であるとして、幕府から禁令が出されている。その後も江戸時代前期にいたるまで、辻相撲は何度か禁令の対象になっていたようである。中世以降に進行した相撲人の専門化と職業化の傾向とは別に、一般の民衆も、娯楽の一つとして相撲を自由に取って楽しんでいたようだ。

(1)指定された田地からの収益のうち一定部分について国家への貢納を免じ、給与すること。新田 [1994]、116頁。
(2)新田 [1994]、136〜137頁
(3)新田 [1994]、138頁
(4)新田 [1994]、147〜148頁
(5)捕獲された鳥類魚類を山野池沼に解放する仏事。
(6)新田 [1994]、161頁
(7)現在の大相撲が個人優勝を核にした個人戦であるために、相撲は個人競技であるという印象がもたれがちであるが、歴史的に見るとむしろ個人優勝というシステムは珍しく、多くは団体戦のかたちで行われていたことをここで指摘しておきたい。例えば古代の相撲節は左方と右方で勝利の合計数を競い合うことになっていたし、この中世の勧進相撲も、近世の営利勧進大相撲も、ある種の団体戦である。近代に入っても、明治42(1909)年に制定された東西対抗形式は、一旦昭和7(1932)年に廃止されるものの、昭和15(1940)年に復活し、その後昭和22(1947)年まで続いた。それに比べ、現在の公式の個人優勝制度は、大正15(1926)年に制定されたのがはじめである。
(8)これが現在に残る「関取」の語源だと言われている。

 

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