第二章 古代の相撲 ―神事としての相撲―

第一節 概観

日本史においては、一般には、おおむね4世紀頃の大和政権の成立から、12世紀中頃の源平による武士の政権の成立までの期間を古代と呼んでいる。政権所在地で言うと、大和、奈良、平安の3つの時代がこの間に入ることになる。
相撲史においては、この時代の相撲を代表するのは奈良・平安時代の宮廷行事であるすまいのせち相撲節である。8世紀に国家的な神事として成立し、その後時代の変化に伴ってその性格を変えていった相撲節は、12世紀末に断絶するまで、およそ400年にわたって宮廷の初秋の行事として毎年華やかに行われた。前章で述べたように、この相撲節が、それまでの各地で様々な形で行われていた相撲の原型を、文化的な意味付けを与えながら一つに統合する働きをしたのである。言いかえるならば、相撲節を大きな契機として、この時代に、現在の相撲が持つ相撲としての文化的・社会的な同一性がはじめて形作られたと言えるのである。
また、相撲節は、相撲を取る人間(すまいのせちすまいびと相撲節相撲人)として全国から相撲を取れる膂力に優れた若者を半ば強制的に集めて行われたが、後には相撲人の専門化の傾向が見られ、これが相撲節の廃絶後、職業相撲集団の成立に関係してくることなど、後の時代の相撲にも多大な影響を及ぼした。相撲節はまさに日本相撲史上において多大な意味をもつ一大イベントであったと言えるのである。
この相撲節は、そもそも天皇の命によって行われる、豊穣への祈願をこめた国家的神事であった。ゆえに、この時代の豊穣を願う、農耕儀礼と相撲との関係を押さえておかなければ、相撲節を正確に理解することは難しい。したがって、相撲節自体を語る前に、神事としての相撲と農耕儀礼の関係を論じておきたい。

第二節 神事相撲と農耕儀礼

現在、「相撲」と言うと、大相撲にせよアマチュア相撲にせよ、裸身に褌姿で、相手を土俵の外に出すか相手の足の裏以外の体の一部を地面につけることを競い、勝敗を決める格闘競技が一般に連想されるであろう。しかし、日本にはそのような「相撲」とはまったく違うが、「相撲」と呼ばれるものが存在し、毎年定期的に行われている例がある。
例えば、奈良県桜井市えつつみ江包にあるすさのお素戔嗚神社と、同市大西のみつな御綱神社との合同で行われる、2月11日の「お綱祭」に付随して行われる「どろんこ相撲」は、田の中で二人の男が相撲を取るが、勝敗を競うのではなく、泥が体にたくさんつけばつくほど豊作と健康にめぐまれるという。千葉県東金市稲荷社でもどろんこ相撲が行われている。また、乳児を抱いて向かい合い、乳児が早く泣いた側を吉とする「泣き相撲」という例もあるという。
このような、現在の相撲から見ると一見相撲とは思えないものに「相撲」の名が冠されているのは、相撲が社会の中で同一性を獲得していく過程の中で、神事が重要な意味をもっていたからに他ならない。つまり、神や霊に何からの意味を込めて供される儀式に、まだ本能的な格闘から抽出されていなかった相撲が取り入れられたことが、逆に社会の中で相撲の同一性を形作り、相撲を自然発生的な格闘一般から抽出したのである。
では、神事の中で、相撲はなぜ儀式の一部として取り入れられ、どのような意味を担っていたのであろうか。少し長いが、新田の文を引用したいと思う。
「相撲の起源、あるいは相撲にかぎらず綱引やくらべうま競馬など、競技的性格をもった多くの技芸の神事的な意味づけについて、民俗学者はしばしば「年占」という道具だてをもちいて説明している。「年占」は「としうら」とよ訓み、農事の節目に当たる時期に、先祖をまつるとともに、ほうじょう豊穣への祈願をこめてその首尾・不首尾を占う行事であり、自然現象によることもあるが、競技的性格をもった技芸をおこなって、その結果いかんをもって豊凶を占うことも、重要な類型のひとつであった。
競技的性格をもった技芸による年占の神事には、大別して二つの類型がある。第一は、二つの集団(の代表者)のあいだで競い合い、勝った側に豊穣のよしゅく予祝があたえられるというものであり、第二は、豊凶をつかさどる精霊とのあいだでの競技を擬制することによって豊穣の予祝を求めるというものであって、後者の場合、実際にはあらかじめ定められた結果を演じる場合が少なくない。豊凶をつかさどる精霊は、多くの場合、「田の神=水の精霊」として考えられており、精霊を圧伏し、または「一勝一敗」で勝敗を分け、あるいは精霊に勝たせて花をもたせることによって(このあたり、具体的な様相はさまざまである)、精霊の力を自分の側によびこみ、豊かな収穫への予祝をえるというのが、これらの年占の神事の基本的な構造である。」(1)
つまり、勝敗を含む競技的な性格をもった相撲は、農耕儀礼の中で、豊穣を願い、占う「年占」の神事にふさわしく、広く取り入られたということであろう。
このような年占の要素をもつ神事相撲で現在でも行われている有名なものに、愛媛県越智郡大三島町おおやまづみ大山祇神社の「ひとりずもう一人角力」がある。いちりきやま一力山と呼ばれる力士が一人で土俵にあがり、見えない精霊と相撲を取る。一力山は一勝一敗のあと、かならず精霊に投げられて負けることになっているという。これは最近まで行われていたが、今では後継者が途絶え行われていないそうである。
また、池田によると、現在でも行われている神事相撲には、下のようなものがあるという。
「同県(愛媛県)新居浜市別子銅山には山の神の奉納相撲があり、これに類したものは栃木県の足尾銅山にもある。京都では上賀茂神社の「からす烏相撲」のほか、まけ摩気神社の秋祭にも相撲が行われる。奈良県桜井市の「どろんこ相撲」は、田んぼの中で泥まみれになる異色な相撲である。同市出雲には宿禰の古墳伝承地があり、少年相撲が復活している。千葉県東金市稲荷社にも早乙女によるどろんこ相撲がある。茨城県鹿島神宮には「国譲り」神話の主人公、建御雷神に奉納する神事相撲があり、その相手の建御名方神をまつる長野県諏訪神社にも同様の催しがある。長野市蚊里田八幡宮と、近くのゆぶく湯福神社、松代の皆神山の相撲は合わせて、善光寺平三相撲といわれている。石川県はくい羽咋神社の「唐戸相撲」は古代から伝わるという。滋賀県蒲生郡日野町の「芋くらべ・神の相撲」、岡山県川上郡備中町鋤崎八幡神社の「七肩半の相撲」、和歌山県日高郡由良町えな衣奈八幡神社の「小引童子角力」、佐賀県西松浦郡有田町石場神社の奉納相撲などがあり、愛知県豊橋市の牟呂八幡社ではサカキの葉で四角の相撲場を設ける。」(2)
また、宮田諭によると、以下のような神事相撲も残っているという。
「滋賀県蒲生郡日野町の白鬚神社には、「どじょう祭」という面白い相撲神事がある。当神社には古くからふたつの宮座があり、氏子はだいたい半分に分かれていた。あることで争いが起こり、いずれが正しいか神意を尋ねることになったが、その方法が粋である。子どもに相撲を取らせ、勝負は引き分け、いずれも正しいとの判定である。そして、田の中のどじょうを炊いて仲直りの祝杯を上げたという。」(3)
「鹿児島県金峰町には、人間がカッパに扮して唄い、踊り、相撲を取るという楽しい祭りがある。その名も「ガラッパ相撲」。ガラッパとは言うまでもなくカッパのことである。南の地方にはカッパ伝説が多く、カッパと相撲を取ったという話がたくさん残っている。面白いことに東北では、カッパが山男になる。折口信夫は「村々で行われる相撲の場所には、大抵、田の用水がある。川・池のほとりが選ばれるが、これは水の神の信仰があったからだ」と記し、カッパはじつは水の神が形をかえたものだと分析している。東北にも相撲を取った山男と田を拓き、水を引いたという伝承は多い。これらは、日本の古くからの精霊と相撲が一体化したものだと言えよう。」(4)
ここで登場したように、カッパ(もしくは河童、ガラッパなど)と相撲の間には非常に深く、実に興味深い関係があるのだが、本論文の主旨から大きく外れるのでここでは触れないこととする。
以上に見てきたように、相撲と神事は、古代から現在に至るまで切っても切れない関係にあるが、ここで相撲と神事の関係を考える際に注意しておかなければならないことが一点ある。それは、神事相撲と奉納相撲は区別して考えなければならないという点である。これは、後の章でも触れるが、中世以降の相撲の芸能化(相撲興行の成立)を考える際にも重要な点であるので、ここに新田の指摘をあげておきたい。
「相撲と神事・祭礼とのむすびつきには、現代にいたるまでさまざまな形態がある。しかし注意すべきことは、各地の寺社の祭礼に際して現在もおこなわれている相撲奉納の多くは、相撲がおこなわれることと神事の内容とが必然的にむすびついているわけではなく、いわば祭の余興のひとつとして、かぶおんぎょく歌舞音曲などさまざまな芸能とともに相撲がおこなわれている場合がきわめて多い、という点である。とりわけ近世以降には、職業相撲の興行のひとつのパターンとして、れいせん礼銭をとって祭礼相撲に参加する場合が多く、祭礼は職業相撲の重要なマーケットのひとつであった。当然ながら、そこでおこなわれる相撲は特殊な神事ではなく、観客に提供される娯楽であった。ここで、神事に際して奉納される芸能のひとつとしての相撲(奉納相撲)と、相撲のしょさ所作そのものが神事の不可欠の要素としての意味をもったもの(相撲神事)とは、いちおう区別して考えておいたほうがよいと思われる。」(5) もとより従うべきであろう。
さて、以上のところで、神事としての相撲と、農耕儀礼の中で、相撲が「年占」の神事として取り入れられ、それが相撲の同一性を形成する要因の一つであったことを述べた。次節以降では、それらの議論を下敷きにして、実際に日本全国の相撲を文化的意味付けを与えながら統合する働きをした、相撲節の盛衰とそれが相撲にもたらした影響を見ていきたいと思う。

第三節 相撲節の成立とその意味

相撲節(すまいのせちえ相撲節会とも呼ばれる)は、毎年旧暦の7月7日に盛大に行われていた、朝廷の年中行事である。記録上では、天平6(734)年7月7日、聖武天皇が「相撲ぎ戯をみ観」たと『しょくにほんぎ続日本紀』にあり、この天覧相撲が相撲節のはじまりであるとされている。それから高倉天皇の承安4(1174)年7月を最後に廃絶するまで、相撲節はおよそ400年間、朝廷の初秋を飾ってきた。
詳しくは後述するが、9世紀末ごろを境に、相撲節の儀式の内容や国家にとっての位置付けが変化したので、ここでは便宜的に8世紀半ばから9世紀半ばまでを前期相撲節、9世紀末から12世紀末に断絶するまでを後期相撲節と呼ぶことにする。
相撲節は、つまるところ毎年7月7日(初期は7日と8日の2日間)に行われる一年に一回の天覧相撲である。相撲を取るのは、全国各地から徴発された膂力にすぐれた者たちであり、彼らは「すまいびと相撲人」と呼ばれていた。全国から相撲人を集める制度は8世紀初頭にすでにはじまっており、養老3(719)年に「初めてぬきでのつかさ抜出司を置く」と『続日本紀』にあるのが、その最初であるとされている。
相撲節は、奈良時代にはまだ、全国から膂力にすぐれた者たちを集めた「全国相撲大会」的な性格であったと思われる。しかし平安時代に入って、制度諸式が整えられ、弘仁12(821)年、嵯峨天皇の時代に、宮中の重要儀式であるさんどせち三度節の一つとして、弓術の節会であるじゃらい射礼、馬上から弓を射るうまゆみ騎射とともに初めて相撲節という独立した儀式が完成したという。
9世紀半ばまでの前期相撲節はおおむね次のような次第で準備され、執り行われていた。
まず、衛府にすでに任用されている武人の中から膂力すぐれた者と、その年新たに相撲人として諸国から集められたはくてい白丁から実際に相撲節で相撲を取る相撲節相撲人が組織される。諸国から徴発される相撲人は、国司の責任のもとで、「すまいのことりのつかい相撲部領使」(すまいのつかい相撲使とも称される)によって全国各地から集められる。相撲部領使はその年の2月に任命され、左近衛府と右近衛府それぞれから、山陽道や南海道などの「道」ごとに派遣されて、各地の膂力すぐれた若者から相撲人を選び出し、それらを連れて遅くとも6月20日までに帰京しなければならなかったという。
相撲節の1ヶ月前くらいには、相撲節の運営に当たる「すまいのつかさ相撲司」が編成される。中納言・参議・侍従など五位以上の高官の中から左方・右方にそれぞれ12人ずつ、合計24人が任命され、さらに別当(総監督のようなもの)にはおおむね親王が任命され、これらで組織される相撲司が実際の運営に当たるのである。 相撲節の十数日前には、「めしおおせ召仰」と呼ばれる歌舞音曲などの細かい打ち合わせが行われるとともに、「すまいどころ相撲所」と呼ばれるけいこ稽古場で稽古相撲が行われ、これを「うちとり内取」と言った。内取の前に、相撲人たちはおのおのの出身地に従って左方、右方に分かれる。平安京の入口であるおうさか逢坂の関を境にして東三十三国から来たものが左、西三十三国から来たものを右とされた(6)。内取は予選も兼ねており、左は左、右は右どうしで取り組み、その成績によって、それぞれ最強位のほて最手、次位のわき脇(最手脇)などの順位が決められる。ちなみに最手と脇はのちの大関と関脇にあたる。(7)
相撲節は、平安時代前期には七月七日と八日の二日間に渡って行われていた。七日には、天皇以下、皇族、大臣から六位以下にわたる全官人が臨席し、官人、相撲人など300人以上によるパレードがあり、その後実際の取組が行われる。まず、子供による「占手」相撲が行われた後、左右の近衛府から「たちあわせ立合」という介添役に伴われて相撲人が登場し、相撲を取る。相撲は必ず、左右の対決によって行われた。当時はまだ土俵がなく、勝負は相手を倒すことによって決したという。勝負がついたところで、勝方の近衛次将の指示で、「かずさし籌刺」という味方の勝利の回数を数える役の者が矢を地面に突き立て、左方の相撲人が勝てば左の舞である「ばとう抜頭」が、右方が勝てば右の舞である「なそり納蘇利」が、それぞれ奏される。現在の行司に当たる、勝負を見極める役割の者はいなかったため、勝負がもつれた場合には「ろん論」「しょうぶさだめ勝負定」(現在の物言いのようなもの)になり、最終的には「てんぱん天判」という天皇の判断がなされることになっていた。「じ持」と称して、勝負なしに終わる場合もあった。このような次第で相撲が20番行われて儀式は終わる。次いで八日には、三位以上の官人のみの臨席で計20番の相撲が同じように行われて終わる。
以上に見てきたような次第で行われていた相撲節は、日本国家にとって、どのような意味を持っていたのだろうか。
それには、第一に、農耕儀礼との関係が挙げられる。前節で述べたように、相撲は農耕儀礼の中で、豊穣を願い占う、「年占」の神事として神社を中心に一般に広く行われていた。相撲節は、この「年占」の神事としての相撲を、天皇の命によって国家的レベルで行ったものであると考えられる。つまり相撲節は、日本国家が、農事の節目に当たる時期に、豊穣への祈願をこめてその首尾・不首尾を占う神事であったのである。
このことは、相撲節が毎年7月7日に行われていたこととも関係がある。7月7日と言えば、言うまでもなく七夕である。詳しい議論は省くが(8)、旧暦7月は、水田による稲作を主な農事としていた古代日本人にとって、田畑の整備と種まきに代表される、一年間の農事暦の前半と、収穫に代表される後半のちょうど狭間にあたり、年の前半の厄をはらい後半の豊穣を祈る重要な契機であった。相撲節は、何よりもまず、国家的年占の神事として、農事の中間点である7月7日の七夕の日に、年の前半の厄を払い、後半の豊穣を国家全体で祈願するという儀式だったのである。新田は、それを示すものとして、
「本来は正規の相撲人の取組にさきだって「四尺以下」の小童による「占手」相撲がおこなわれたことや、『江家次第』に「諺に云く、左方を帝王方と為す」として、貞観(859〜877)以前には正規の取組の第一番には右方の相撲人がわざと負けるならいであった、と述べていることなど」(9)
を挙げている。
第二に、相撲節は、全国各地から膂力にめぐまれ、武術に秀でた若者を集め、国庫の守護、皇居の守衛などにあたるえじ衛士や、国防にあたるさきもり防人などとして登用することも目的の一つにしていた。これは、8世紀から9世紀にかけて、相撲節などの機会に際して、膂力にすぐれた若者を国家に対して優先的に送るように命じた勅が各地へ出されていることや、相撲節で相撲人最高位の最手をつとめた者の中から、朝廷の警衛にあたる近衛番長に任命される者が多く出ていることからもわかる。
以上の二点は、国家的行事としての相撲節の公の目的であるが、相撲節は、国家権力にとって、もう一つの重要な意味を担う儀式であった。相撲節は、天皇=大和政権による国家支配と、周辺の異族たちの服属を再確認するという意味が込められた儀式だったのである。
このことを理解するために、もう一度神話をひもといてみたい。『日本書紀』の中には、天武天皇11(682)年に、貢物をたずさえて上京したおおすみはやと大隅隼人とあたはやと阿多隼人が相撲を取り、大隅隼人が勝ったという記録がある。隼人族は大和政権の平定より前に現在の鹿児島県およびその南方の島嶼にすんでいた先住者で、くまそ熊襲やえみし蝦夷と同じく、異族と考えられていた民である。記紀神話では、いわゆる山幸彦海幸彦の神話の中で、天皇家の祖先と隼人の祖先は兄弟であったとされている。実際には、5世紀ごろ大和政権に服属し、歌舞や朝廷の警護をもって天皇に仕えていた。大隅隼人は現在の鹿児島県東部に住んでいた隼人族、阿多隼人は現在の鹿児島県西部に住んでいた隼人族である。
これら異族が朝廷で相撲を取るということは、天皇に対する服属と奉仕を意味する儀式であった。
また、前章の第三節で述べたように、相撲の起源神話として語られる、建御雷神と建御名方の国譲りの相撲と、宿禰と蹶速の相撲とには、ともに天皇への奉仕という類似性が見られた。特に、垂仁天皇7年7月7日の七夕の日に行われたとされている宿禰と蹶速の天覧相撲は、明らかに相撲節の起源として語られており、宿禰=外来の強者による天皇への奉仕が、各国から相撲人を徴発し天皇と国家に対して相撲を供させることに重ねられるのは明白である。
これら、外来・異族の強者が相撲を取り、それを天皇に奉じることによって、天皇との支配・服属の関係を再確認するということが、全国家的な行事として行われたのが相撲節なのである。
宮本徳蔵によれば、相撲節にこめられた意味は次のように明らかである。
「当日、親王や公卿をしたがえた天皇が紫宸殿のうちに着座すると、左右に分かれた力士はひとりずつ呼びだされた。かれらはえぼし烏帽子をかぶってかりぎぬ狩衣をまとい、剣を佩いた戦士の姿であった。だが狩衣の下は袴も下着もつけず、素裸にフンドシを締めこんでいるのみで、もちろんはだし跣である。かたや方屋と呼ばれる支度部屋を出ると、おのれの珍妙な恰好に恥じ入るごとく大きな体をちぢめがちに列席の朝臣たちのあいだを歩き、相撲場にいたった。そこでは狩衣と剣をもはずしてフンドシひとつとなり、相手方と対戦させられた。
くだくだしい説明をするまでもなく、これは明らかに降伏と武装解除を暗示するシンボリックな儀礼なのである。」(10)
やや文学的な表現であるが、相撲節に込められた意味がよく浮き彫りにされている。
全国各地の相撲に同一性を与える機会となった相撲節は、政治的な要素と切っても切れない関係にあったのである。

第四節 相撲節の廃絶

前述したように、9世紀末ごろを境に相撲節の儀式の内容や国家にとっての位置付けは少なからず変化する。
前期相撲節において、親王以下高官たちによって組織され、相撲節の実際の運営にあたっていた相撲司は編成されなくなり、それに替わって、本来軍政を担当する部署である兵部省が相撲節の管轄にあたった。これによって、相撲節の全国武芸大会としての要素が強まり、親王をはじめとする皇族や高官たちは相撲節を天皇のために準備し、運営する立場から、天皇とともに鑑賞する立場に変わった。
また、儀式の次第は、相撲人と官人によるパレードや、国家的年占としての相撲節を象徴する、取組の前の子供による「占手」相撲が省略され、替わって「おいすまい追相撲」「ぬきで抜出」と称される天皇の望む取組が、本来の取組の後に行われるようになるなど、芸能を鑑賞する催し物としての要素が強まった。
さらに貞観年間(859〜877)からは7月下旬を開催の日とすることになり、七夕という農事にとって重要な日に行われる、国家的「年占」の神事としての要素はますます薄くなっていったと考えられる。
これらの変化をまとめるならば、相撲節は、七夕という節目の日に行われる、豊穣を祈る国家的「年占」の神事であり、親王・高官と全国の強者がこぞって天皇に奉仕して服属を表現する、国家支配体制を再確認する重要かつ神聖な儀式から、天皇以下朝廷の面々に供される全国武芸大会へと、その性格を変えていったのである。
また、その相撲節自体の変化に伴い、相撲節相撲人の構成にも少しづつ変化が見られるようになった。相撲人は原則として、諸国から膂力にすぐれた者や相撲に巧みな者が選抜され貢進されることになっていた。しかし農繁期に重要な労働力である若者を何ヶ月も取られるので、当然のように相撲人の貢進は滞りがちだったようで、本来相撲人ではないはずの、近郊の大きな若者を相撲人として徴発したりと、苦労は多かったようである。
相撲節で相撲を取るために上京した諸国の相撲人たちは、七月に相撲節が開催された後も、そのまま京に残り、貴族の私邸で開かれる相撲に招かれたり、京周辺の寺社の祭礼に奉納される相撲を勤めたりしていた。平安時代末期の記録には、松尾大社や岩清水八幡宮、賀茂神社などで催される祭礼の相撲に、相撲節相撲人が招かれ相撲をつとめた事例があるという。
しかし、12世紀ごろになって、相撲節相撲人たる地位が固定され、もしくは特定の氏によって世襲される事例が目立つようになったという。それらの多くは地方の武士の家柄であった。下野国の藤原姓足利氏、いなば因幡国のいふくべ伊福部氏、せっつ攝津国渡辺党嵯峨源氏など、何人もの相撲人を一族から出している家柄は、「相撲の家」と呼ばれた。
時代が下るにつれて、それらの家柄が固定化する傾向は強まり、相撲人の多くがそのような「相撲の家」から出たもので占められるようになったという。これは明らかに相撲人の専門化であり、中世以降の職業相撲集団の成立にも関係がある可能性がある。
以上のように、相撲節は10世紀以降大小様々な変化を迎えたが、12世紀に入ると、様々な理由で次第に途絶えがちになった。社会は源平に代表される武家の台頭と朝廷の権力の弱化を迎え、これらが原因となって、政情は不安定になっていた。「保元の乱」「平治の乱」などの相次ぐ政変により、保安3(1122)年から承安4(1174)年までの52年間のあいだ、相撲節は保元3(1158)年に一回行われたきりであった。そして高倉天皇の承安4(1174)年の開催を最後として、相撲節はついに廃絶したのである。相撲節が衰退し廃絶した原因としては、まず政情不安によって相撲人を諸国から徴発することが難しくなったことが挙げられるであろう。前述したように、9世紀・10世紀の比較的平和な時代においても、相撲人の徴発は滞りがちだったのである。また、先に述べたように、年々国家的神事としての要素が薄まっていたことも原因に挙げられるだろうし、相撲節を開催する費用が調達できなかったということも考えられる。もちろんそれらの背景には、朝廷の権力の弱化がある。時代は平安貴族の時代を終えてまさに武士の時代を迎えようとしていたのである。相撲節が廃絶した承安4年は、源平の合戦のはじまりとなる、源頼朝が挙兵した年のわずか6年前であった。
このようなおよそ400年の歴史を持つ相撲節は、相撲史の中でどのような意味を持っているのだろうか。相撲節は、その長い歴史を通して、相撲の成立とその発展にどのような影響を及ぼしたのだろうか。
相撲節は、前章で述べたように、各地で様々な形で行われていた相撲の原型を、文化的な意味付けを与えながら一つに統合し、現在につながる相撲の同一性を形作ったと言える。諸国から相撲人を徴発し、特定の形式のもとで相撲を取らせるという相撲節のシステムは、日本の各地で行われていた相撲の形式を統一させ、そしてそこに「農耕儀礼」と「服属儀礼」という二つの文化的意味付けを与えることによって、ある格闘技ないし技芸が、「相撲」という言葉で表されるときに必ず含まれる同一性を構築することに成功したのである。
そしてその構築された同一性には、格闘技としての技術・形式なども当然のごとく含まれる。初期の相撲節において取られた相撲には、激しい打撃技の応酬があったり、長く伸ばした爪で相手の顔をひっかくのを得意とした相撲人がいたりと、格闘技として見たときには、現在の相撲とはかなり様相を異にしているものが多い。しかし前述した、相撲節相撲人の固定化と、「相撲の家」による相撲人の専門化を経て、相撲節廃絶直前には、相撲人は高度に洗練され、様式化された技術を持っていたと考えられている。これを新田は、「「相撲」の成立である」(11)と言い切っている。
また、近世の勧進相撲から、現在の大相撲につながる、格闘技の本質以外の様式美に関しても、その多くが相撲節を起源としていると言われている。たとえば現在の大相撲にも残る「弓取式」の起源は、勝方の「立合」が弓を持って舞う「立合舞」だとすることや、「花道」や「力水」は、勝方の相撲人が造花(右方はゆうがお瓠、左方はあおい葵とされる)を次の相撲人に与えたという習しが変化したものだとすることがそれである。
原始・古代においては未だ自然発生的な格闘から明確に分離されておらず、各地で様々なかたちで行われていた相撲が、400年間の相撲節を経てしだいに統合され、格闘技としても技芸としても、日本独自の様式をもつ「相撲」と呼ばれるものが同一性を携えて社会に現れることになった。現在の相撲の、直接の祖先の誕生と言ってよいだろう。


(1)新田 [1994]、44〜45頁
(2)池田 [1998]
(3)(4)ともに、宮田 [1992b]、268頁
(5)新田 [1994]、59〜60頁
また、本論文の第五章 第三節 近代スポーツと相撲 の中で、この祭礼にともなって行われる相撲の世俗性の増加と儀礼性の減少に関して述べたのでそちらも参照のこと。
(6)新田 [1994]、85頁には、相撲節の左右が相撲人の出身地の東西と対応するというのは俗説であるという見解が示されている。
(7)のちに触れるが、横綱は近世になって生まれた概念で、しかも当初は大関や関脇のような番付上の地位ではなく、綱を腰に締めて土俵入りを行う資格があることを意味する名誉のある称号のようなものであった。横綱が番付上の最高位に位置付けられるのは、実は明治時代になってからなのである。
(8)新田 [1994]、51〜59頁に、反論も含めて七夕と相撲との関係が綿密に論じられている。
(9)新田 [1994]、73頁
(10)宮本 [1985]、35頁
(11)新田 [1994]、96頁

 

 

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