第一章 原始・古代の相撲 ―相撲の起こり―
第一節 概観
相撲の長い歴史のはじまりは、他の多くの文化と同様に、歴史のある一時点をもってしっかりと定められるものではない。さまざまな文化的な要素が複雑にからみあって形成され発展してきた相撲は、特にそのはじまりを一時点に限定することが難しいと言えよう。
前史から平安時代までの原始・古代における相撲の歴史は、日本の各地で様々な形で行われていた相撲の原型が、それぞれ相互に影響を与え合いながら、外部の力も受けつつ次第に統合され、現在の相撲につながる一つの技芸が形成されていく流れであるとまとめることができる。特に、奈良時代から平安時代にかけて行われた国家的行事であるすまいのせち相撲節は、その様々な相撲の原型を、文化的な意味付けを与えながら一つに統合した場として捉えることができる。そもそも、現在の日本の相撲は、格闘技として見ると、その本質とは関係ない要素を多分に含んでいることからもわかるように、もともと日本においては、相撲は、格闘技としての性質ではなく、それにまつわる文化的な意味付けを与えられることによって共通性を形作り、一つの技芸として成立したのである。
したがって本章では、その統合される以前の、ある意味で混沌とした相撲の姿を、様々な歴史的資料から眺めてみることにする。
第二節 相撲の起源
「すもう」の語は、「すまふ」の連用形「すまひ」が名詞化したものが語源であり、「すまふ」の意味が「あらそうこと」や「あらがうこと」であることからわかるように、本来闘争や格闘一般を指した語であった。
その読みを当てられることとなった「相撲」の語は、釈迦の生涯を記した『ほんぎょうきょう本行経』をサンスクリット語から漢訳した際に、梵字ゴタバラ(相撲の意)に当てる言葉として造語されたとする説と、晋代の歴史書までその起源をさかのぼることができるという説と、語源を巡って二つの説が対立しているが(1)、どちらにせよ「あいうつ」というように訓読できるように、そもそもは力くらべ、格闘を意味した漢語である。
また、同じように「すもう」という読みを当てられる「角力」「角抵」「角觝」の語も、新田一郎によると、
「字義通りには、「角」は「くらべる」「きそう」意味(「角逐」の「角」とおなじ)、「角抵」「角觝」の「抵」「觝」はいずれも「うつ」「あたる」という意味の字であり、「角力」は力くらべ、「角抵」「角觝」は力芸・技芸を競うことをさしてもちいられた語で、いずれにせよ本来は特定の様式の格闘競技ではなく、格闘一般ないし技芸一般を意味する漢語であった。」(2)
池田雅雄によると、「中国では、孔子の『礼記(らいき)』に、「武を講じ、射御を習し、以て角力す」とあるが、この「角力」は力くらべの意味で、必ずしも相撲をさしていない」と言う。(3)
このように、「すもう」「相撲」「角力」「角抵」「角觝」など、相撲をさすいずれの語も、現在の相撲のような、特定の様式をもつ格闘技ではなく、本来格闘一般ないし技芸一般の競いを意味する語であった。
現在相撲を指す言葉が本来格闘一般を意味している言葉であったことからもわかるように、相撲は、人間が半ば本能的に行っていた格闘一般から自然発生的に生成されたものである。相撲が自然発生的な格闘技であり、日本やアジアのみならず全世界にまたがる普遍性をその最下層に持っているということは、大昔から現在まで、全世界で相撲と同様の格闘技が行われている事実からも明らかである。
池田雅雄によれば、全世界で相撲に類する格闘技が行われていたということは、以下のような発掘品や歴史的資料で裏付けられるという。
「前3000年ころの古代メソポタミア初期王朝時代の遺跡テル・アグラブで発掘された「闘技像脚付双壺」は、2人の男が右四つに取り組んでいる青銅製の遺物で、日本の相撲にそっくりの形態である。またエジプト中王国時代(前2000‐前1800)のバニハサンの壁画に、レスリングのような形をした裸体の男が、さまざまの姿態で描かれている。インドでは釈迦がまだ太子のころ、相撲のような競技によって力くらべをし、美しい姫を妻としたという「争婚」の記事が、釈迦の生涯を記した『ほんぎょうきょう本行経』の一節に出てくる。」(4)
「中国では孔子の『礼記(らいき)』に「武を講じ、射御を習し、以て角力す」とあるが、この「角力」は「力くらべ」の意味で、必ずしも相撲をさしていない。しかし『漢書』に「秦の武王、角を好み」とある角は角力のことで、相撲に類した武術であったらしい。また河南省打虎亭2号後漢墓の壁画「角觝の図」によって、漢の時代に格闘技が盛んであったことがわかるが、当時の角觝は相撲だけではなく、技芸・雑技の総称であったように解釈される。 ヨーロッパでは、古代ギリシアのオリンピックで格闘技が行われ、そのありさまが多くの皿や壺に描かれている。」(5)
このような、世界各地で行われていた自然発生的な格闘技は、それぞれの地域で独自に発展をとげていき、現在、モンゴルのボフ(モンゴル相撲)、韓国のシルム(韓国相撲)、トルコのヤールギュレシ(トルコ式レスリング)、スイスのシュヴィンゲン(スイス相撲)、セネガルのブレ(セネガル相撲)などの形で世界各地で盛んに行われている。また、国際スポーツであるレスリングも、同じような自然発生的な格闘技が発展してできたものであることは言うまでもないであろう。これら、世界各地の格闘技がどのように伝播し、その後どの格闘技となって現在に至っているかということや、日本の相撲はどのような経路をたどってどの格闘技から発展したかという問題は、たしかに興味深い問題ではあるが、ここでは深くは触れないことにする。
日本においても、大昔から相撲と同様の競技が行われていたということは、多くの発掘品などの歴史的資料が明らかにしている。
「相撲に関連する考古出土物としてよく知られたものに、和歌山市いんべ井辺八幡山古墳から発掘された、男子力士像埴輪がある。六世紀初頭のものとされている古墳から出土したこの埴輪は、裸身の腰まわりに褌状の布を巻き、やや腰を落とし気味にして両手(かなり欠落している)を前へのべている。岡山県おく邑久郡かしの鹿忍村字槌ガ谷(現、牛窓町)から出土した、壺を肩にのせた人形土器に、二人の男が組み打ちをしている姿をうつしたものがあり、いんべ井辺八幡山古墳出土の埴輪の形状も、これに類似している。その他、五世紀末から六世紀にかけての作とみられる装飾須恵器小像や力士埴輪の類が、日本各地から出土している。」(6)
「兵庫県西宮山古墳から掘りだされた、須恵器のツボがある。六世紀終わりごろのものだろう。ツボの肩に、小さな小さな人物が四人、つくりつけられている。筋骨逞しい右側のふたりは、たがいに太い両腕を相手の体にかけて、はげしく揉み合っている。」(7)
しかしこれらは、あくまでも、日本においても、大昔から相撲の原型となるような格闘技が行われていたことを示すだけであり、現在のような、特定の様式を持つ相撲そのものが確立していたということではない。むしろ、世界各地で、自然発生的な格闘から派生した相撲に似た格闘技が様々な形で行われていたように、日本においても、その地域に即した様々なかたちで、相撲の原型となる格闘技が行われていたと考えるのが自然であろう。そもそも古代においては、日本列島自体がまだ均一性の高い社会として統合されていたとは言い難いのである。
では、そのような、全国各地で自然発生的に行われていた様々な相撲の原型としての格闘技は、どのような過程を経て、相互に交流し、一つの格闘技としての相撲に統合されて行くのであろうか。
第三節 神話の中の相撲
様々な地域で行われていた相撲が、現在のような特定の様式を持つ一つの格闘技に統合されていく過程においては、格闘技としての相撲の性質よりも、それをとりまく文化的な意味付けが重要な働きをしたと言える。その文化的な意味付けは、奈良時代から平安時代にかけて行われた国家的行事である相撲節において最も強力に働いたが、我々はその源流を日本神話の中から見出すことができる。神話の中では、相撲はどのように描かれ、どのような文化的意味付けを与えられているのであろうか。なお、相撲節に関しては、第二章で詳しく述べる。
日本神話の中にあらわれる、「相撲」もしくは力くらべの話は、『古事記』に見え、後世に「国譲りの相撲」と呼ばれる、建御雷神(タケミカヅチ)と建御名方(タケミナカタ)の力くらべをその始まりとする。天照大御神(アマテラスオオミカミ)の命を受け、あしはらのなかつくに葦原中国を平定するべく、たかまがはら高天原から天下った四度目の使者建御雷神に対し、大国主命(オオクニヌシノミコト)とその子八重言代主命(ヤエシロコトヌシノミコト)は従う意向を示すが、大国主のもう一人の子である建御名方は納得せず、決着をつけるべく建御雷神に力くらべを挑む。出雲国いなさのはま伊那佐浜で立ち合った二神は、たがいの手を取り合って力くらべをし、建御雷神はいともたやすく建御名方の手をつかみ、投げはなし、敗れた建御名方は遁走し、しなの科野国すわ須羽(現在の長野県諏訪市)で降伏し服従を誓う。その結果、葦原中国は天孫邇邇芸命(ニニギノミコト)の支配下に入ることとなったという説話である。
次に、のみのすくね野見宿禰とたいまのけはや当麻蹶速の力くらべも、相撲の起源神話として一般に有名である。『日本書紀』にみえるこの説話は、おおむね次のような内容である。
第十一代すいにん垂仁天皇七年七月七日、比類なき強さと名高い大和国の当麻蹶速と出雲国の野見宿禰が天皇の命で対戦することになった。二人はお互い足をあげて蹴り合った末に、宿禰は蹶速の脇骨を蹴り折り、腰を踏み砕いて殺してしまった。天皇は蹶速の領地をことごとく宿禰に与え、その地は後に「こしおれだ腰折田」と呼ばれることになった。その後宿禰は天皇に仕えて土師の臣の祖となり、天皇・皇族の死の際に行われていた殉死の風習を埴輪をもってかえることを建議するなど多くの功績をなしたという。この野見宿禰は単なる神話の登場人物にとどまらず、この大一番に勝利したことにより、
「いまでも「相撲の祖」「相撲の神様」として遇され、東京都墨田区亀沢にある宿禰神社では、年三回の東京場所ごとに、日本相撲協会関係者らが出席して例祭が営まれている」
という。(8)
後の章でもたびたび登場するが、相撲の長い歴史において、天皇およびその時々の権力者の前で行われる上覧相撲(天皇に供される場合は一般に天覧相撲と称する)は、その時々の相撲および相撲社会に多大な影響を与えてきた。この宿禰と蹶速の相撲は、文献に残る最古の上覧相撲である。
この二つの相撲の起源神話から読み取れることは多いが、特に次の二点が重要である。まず、両者とも「たがいの手を取り合って力くらべ」「お互い足をあげて蹴り合った」という、現在の相撲とはかなり異なった形で勝負が行われている点である。これは、神話が歴史的事実をそのまま記したものではないとは言え、その当時の相撲の姿、つまり自然発生的な格闘に限りなく近い相撲の姿を反映したものであることは間違いないであろう。
もう一点は、国譲りの相撲も、宿禰と蹶速の相撲も、ふたりの勇士がただ自分の武力を試すために戦ったのではなく、天孫族=天皇の存在が勝負の前提になっていることである。建御雷神は天照大御神の命を受け、高天原を平定するべくそれに抵抗する建御名方と戦い、勝った。宿禰と蹶速は天皇に召されて、天皇の前で蹴り合った。ともに、天孫族=天皇が、決して無視できない要因として、二つの相撲に存在しているのである。この類似性を、新田は「外来の強者が土地の強者を圧伏して天皇に奉仕する」(9)という言葉で表している。
ここでは、ひとつひとつの神話の意味や類似性を神話学的に綿密に解釈することはしないが、この天皇への奉仕という性格は、後の相撲節につながる、各地の様々な相撲が一つに統合される際に働いた重要な文化的意味付けの一つであり、注目すべきであると考えられる。
のちの歴史も雄弁に語ることであるが、相撲はその長い歴史を通じて、実に多大な影響をその時々の政治的権力から受けてきた。この二つの起源神話から読み取れるように、その成立の過程にも、政治色が非常に色濃くあらわれているのが面白いと言えるだろう。
神話の中にあらわれる相撲の姿は、この二つの起源神話だけではない。相撲が話題の中心ではないが、日本の史書にはじめて「相撲」の文字が登場するという、『日本書紀』にみえる次の説話も大変興味深いものである。
第二十一代雄略天皇十三年九月、いなべのまね猪名部真根という木工の達人が、「終日斧を取り、石の台の上で木を割っても、斧の刃を傷つけることは断じてない」と、自らの腕を自慢していた。雄略天皇はその慢心を憎み、真根を召して木を割らせるとともに、その目につくところで、宮女を呼び集め、裸にして褌をしめさせ相撲を取らせた。その相撲に気を取られた真根は斧の刃を傷つけてしまい、天皇に対して不遜な豪語をした罪であやうく殺されそうになったという。
「女性を土俵に上げない」という方針を死守する現在の日本相撲協会を思えば、史書に最初に「相撲」が記された例がこの女相撲であるというのは、多くの研究者たちが指摘するまでもなく、大変皮肉なことと言えよう。しかしそれだけでなく、この女相撲の説話には、「裸身に褌」という現在の相撲の大前提があらわれており、これがその当時の相撲の姿を反映したものであるならば、注目すべきであろう。現在の相撲の様式の中でも重要なものの一つである、「裸身に褌」はこのころからの伝統であることがわかるからである。現在の相撲の様式の中でも、その多くのものは、一般に思われているより比較的最近に成立したものが多いが、(例えば現在のような円土俵が成立したのは元禄時代である)「裸身に褌」という、他の国には見られない日本の相撲に特徴的ないでたちは、この説話や、各地から出土する裸身に褌姿の埴輪などを見ても、かなり古くから成立していたものであると推測できるのである。
また、日本の相撲が史実として記録されたはじめての事例が、『日本書紀』に見られる、いわゆる「こんでい健児の相撲」である。第三十五代皇極天皇元(642)年七月、百済より来朝した使者ちせき智積をむかえた際に、こんでい健児(宮廷の衛士)たちに相撲をとらせたという記録が残っている。
これらの神話や記録は、その当時の相撲の姿がどのようなものであったのかを推測する手がかりになるだけではなく、様々な相撲の姿が全国的に統合される際に働いた文化的な意味付けの一端を垣間見せる。なぜなら、神話は、その当時の史実を反映しているとはいえ、後の世から見て都合の良いように意味付けられているからである。
次章で詳しく述べるが、国譲りの相撲と、後の相撲節の起源神話として位置付けられる、宿禰と蹶速の相撲のとに、天皇の介在という類似性が見られるのは、必ずしも、それに対応する史実があったというわけではない。それよりもむしろ、天皇による国家支配のプロセスの再確認の契機という性格を持つ、相撲節の正当性を神話にまでさかのぼって設定しようとする試みがなされているからなのである。何と言っても、神話は国家による恣意性が色濃くあらわれるものなのだ。
註
(1)「相撲」経典漢訳時造語説は、酒井 [1956]や、池田 [1998]に見られる。また、それに対する中国起源説は、長谷川 明 『相撲の誕生』
(新潮選書、1993)に基づいて、新田 [1994]、13頁で主張されている。
(2)新田 [1994]、12〜13頁
(3)池田 [1998]
(4)(5)ともに、池田 [1998]
(6)新田 [1994]、27頁
(7)宮本 [1985]、26頁
(8)新田 [1994]、25頁
(9)新田 [1994]、25頁
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