これがUPHAR G.H.(ゲストハウス)、ドミでRs35だ!
暑い、汚い。もう行かないぞ〜。おすすめはやっぱりRingo G.H.。

イラン行きを前に喜ぶゆうじときょう。このあとマラリアに悩まされるとは誰も予想しなかった。

これが最後。帰ったら定職に・・・。
日常の重圧嫌い地球放浪

答え先延ばしした自由
六畳一間に、ワインのびんが十本余り。ほかにはテレビがあるだけだ。愛知県・渥美半島にある自動車工場併設の寮の一室。部屋の主の隆さん(仮名)は、半年の期間工の契約が終わったら、その金で旅に出る。これで最後にするつもりだ。

本を見て決心
最初の旅は1993年、20歳の初夏だった。高校を卒業し、整備会社の事務職をしていた。就職して一年余り。同僚と飲みに行っても、上司の悪口と仕事のグチばかり話していた。ある日、本屋でたまたまネパールのガイドブックを手にした。ヒマラヤの山並みがとてもきれいだった。「行ってみたいなぁ」。自分はまだ若いんだと思うと簡単に会社を辞められた。貯金は20万足らず。往復の旅費を除くと所持金は2万円しかなかった。簡素な安宿で気ままなときを過ごした。宿の経営者の子供たちと遊んだり、中国から入ってきた旅行者の冒険談を聞いたり、マリファナを吸ったり。今までの人生で一番自由だと感じた。1ヶ月後、日本に戻ると、車の多さと騒音、深夜まできらびやかなネオンなど、不自然でならなかった。また旅に出たいと思った。旅費を稼ぐため、2ヶ月間、ガラス工場で働いた。細かいガラス玉を加工する機械の前に立ち、異常があったら停めて中の様子を見る。単調な仕事に「長くは続かないな」と思った。50万円を手に、94年春、2度目の旅に出た。上海からエジプトまで陸路で横断し、寒くなるころ帰国。すぐに3度目の旅を目指して外装工事のアルバイトを始めた。
日本は退屈
何度もひとりで国境を越え、自信が芽生えた。安宿の探しかた、地元の人との交流、孤独の楽しみ方。旅のスタイルがつかめてきた。一方で帰国すると自分のようにふらふらと旅をしているものは周囲にだれもいないことも気になる。「この旅を思いっきり楽しんだら、帰って定職に就こう」。そう決めて95年5月に日本を発った。ロシア・欧州・米国・中米と一回りして戻ってきた。これで終わりのはず、だった。ところが日本に帰るとすぐにまた旅に出たくなった。退屈なのだ。日本の生活に、旅で得られた充実感が全くなかった。中国ウルムチで、腰の曲がったおばあさんに南京大虐殺の責任を問われてうろたえた。パキスタンでバスががけ崩れにあい、同乗者に死者が出て、足がふるえた。毎日が緊張に満ちていた。
理由こじつけ
昨年6月、隆さんは「もう一度だけ」と4度目の旅に出た。アジアと米大陸を8ヶ月かけて回り、今年2月に帰ってきた。だが帰国が近付くと、もう一度旅に出る理由をあれこれ探している自分があった。「そうだ、今度は、まだ行ったことがないアフリカだ」。半ば開き直りでもあった。銀行員の同級生は「お前は気楽でいいよな」とうらやましがった。トラック運転手の親友はすでに男の子の父になっている。着実に生活を始めている友人たちに比べて、確かに頼りないと思う。アメリカで出会い、中米を一緒に旅した日本人女性と帰国後も付き合うようになった。彼女は、「アフリカに一緒に行きたい。その後はあなたと結婚したい」と言う。その彼女に返事ができないでいる。20歳のときも今も、どこかで日常の重圧を感じている。旅に出ている間は自由でいられるが、それは答えを先延ばししているだけかもしれない。今、期間工として働いている自動車工場は一日に150台近い乗用車を生産する。隆さんは来る日も来る日も、スポット溶接でボディに部品をくっつける。「旅の途中だと思えるから、やっていられる。これが日常だとしたら・・・」隆さんに踏みとどまる自信はとてもない。

何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。(憲法第22条から)

(朝日新聞1997年5月5日「憲法施行50年後の若者」より)

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