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ブラッドフォード大学大学院 体験記 「お山の大将」の行く末は?TK 勉強の合間に、月刊誌『世界』のバック・ナンバーを読んでいて、目から鱗が落ちる思いをした。 アメリカ政治外交史の専門家、古谷旬氏へのインタビュー記事のなかに、これまでアメリカという国に抱いていた素朴な(しかしそれ自体は重要な)疑問に対するひとつの「答え」を見つけたのである。その疑問とは、「アメリカはなぜ自らを相対化するような視点をもちえないのか」。 丸々1ページ分、その箇所すべてに蛍光ペンが入っていた。2年以上前に一度読んで、今回と同じような感覚をもったには違いないが、まるっきり頭から飛んでいた。少し長くなるが、その部分を引用したいと思う。 ・・・つまりヨーロッパの場合は、デモクラシーはひとつの超越的な原理として、社会階層の違いとか、特権階級に対する批判とかを生み出す理論的・思想的な根拠になっていた。そして、ヨーロッパの場合、たとえば選挙資格の基盤は財産である土地で、その緩和や平等が問題になるのに、アメリカの場合、土地はもともと富裕にあるために、ほとんどデモクラシーがそのまま実現してしまう。生活上の事実として、ヨーロッパで立てられた基準をアメリカにもってくると、アメリカ社会ははなからデモクラシーを実現していることになってしまいます。アメリカのデモクラシーは超越的である必要はなくて、アメリカに来さえすればデモクラティックな生活になる。だから、原理的なデモクラシー議論によって現実を規制したり、統制するという考え方は非常に弱い。事実として、生活としてすでにデモクラシーは実現しているのです。 だから、冷戦のときに、アメリカ的生活様式といえば、即それが自由で民主主義的な生活様式を意味するとアメリカ人は考えたわけです。トルーマン・ドクトリンにうかがえるように、これを、ソ連の全体主義的な生活様式と対比して、二極的に考えるわけです。アメリカでは、すでに生活様式自体が、リベラリズム、あるいはデモクラシーを実現してしまっている。 すると、アメリカが強大な権力をもって、他の社会と厳しい対立関係に立ち、世界の民主主義を擁護するというときに、民主主義にいろいろあるだろうとは考えない。超越的な原理であれば、その原理に基づいて現実との妥協をとおして、それぞれのデモクラシー体制を模索するという仕方があり得るわけですが、アメリカの場合は、アメリカ的な価値基準とか、アメリカ的な思考とか、アメリカ的生活様式がそのまま世界に広がっていくことが世界のデモクラタイゼーションだと考えてしまう。すると、アメリカのデモクラシー自体の特殊性を認識する角度がなくなりますから、アメリカ・デモクラシーの質に対して国際比較に基づいて反省することもなくなる。また他の国とか地域に独自のデモクラティックな伝統や歴史的な文脈があるとも考えないし、そこからデモクラシーを立ち上げることが可能だとも考えない。アメリカ的生活様式を受け入れるか受け入れないかが基準になってしまう。 ヨーロッパの場合は、革命を何度もやって徐々に身分制社会、王制からデモクラシーへ移行し、これは斉藤眞先生の名言ですが、フランス革命の場合には反動が国土のなかに残ったが、アメリカ革命の場合は反動がみんなイギリスへ帰ってしまった。反動があるということは原理としてのデモクラシーと原理としての王制、原理としてのアンシャン・レジームがいつも思想的な空間で争うということです。アメリカの場合はそれがない。 そして、アメリカのデモクラシーというのは日常生活の事実であり、みずからの社会がデモクラシーのモデルそのものであるわけですから、そのデモクラシーに対する批判は、これはアメリカだけの言葉ですが、「非米」とされる。つまり、批判するものは、アメリカに属さないと解されるわけです。チャーチルがイギリス共産党員も、ともかくもイギリス人だ、と言ったのとまったく違います。思想的な争いが現実の生活空間を占める正統性と権利があるかという争いになるので、アメリカを批判するものは、生活空間を拒否する人間だ、非米だ、となるのです。(古谷旬「アメリカ・デモクラシーの特質とは何か?政治外交史の文脈から考える」(『世界』2002年2月号、59-69頁)。引用は67-69頁) アメリカ政治あるいはアメリカ史の専門家にとっては自明の認識図式なのかもしれないが、まるきり素人の僕のような人間にとっては、非常に分かりやすい説明である。 1世紀以上前にトクヴィルが目を見張ったアメリカ社会のデモクラシーではあるが、ここにいたってはいったいデモクラシーとは何かを考え直さなければいけないように思われる。民主主義原理に基づいて作られたシステムが、実際にはそこに暮らす人々の(そしてそのシステムの「外部」に暮らす人々の)民主的な生活を必ずしも保証するわけではないという根本的な問題が改めて頭を過る。しかしここではそうした民主主義自体の問題ではなく、そういう社会であるアメリカをいかに相対的な存在にすることができるのかについて考えてみたい。 現在の世界におけるアメリカという問題は、ある社会の中で「お山の大将」的な位置にいる人間が、「自分が絶対に正しい」と言うときに現れ出す問題によく似ていると思う。 もちろん、お山の大将の理屈が下々の者の思いと一致し、共同体がそれでうまく行っている場合は何も問題はない。しかし、そんなことはそれこそ理想郷の世界の話であって、実際には下々の不平・不満は、その大小はあるにしても、いたるところで噴出するものである。 ある社会で問題が起きたときに、そこで共有されてきた伝統や慣習が問題解決のためのひとつの重要な手がかりになるように、歴史的に鍛え上げられてきた数々の思想や理念は、民主的で非暴力的な問題解決のための引証基準としてその力を発揮するのである。しかしながら、今のところ、アメリカというお山の大将には、自ら内省するための引証基準が自分自身のうちにある理屈(アメリカン・デモクラシー)以外にはないようである。 それならそれで、下々の者が取りうる最も単純な選択は、お山の大将をその地位から引きずり落とし、お山の大将とは違ったやり方で物事を進めていくようにするということになるのだろう。しかしながら、ことアメリカと世界という問題にかんする限り、この方法には現実味がない。なぜならば、現在の世界は善かれ悪しかれ、アメリカという存在なくしては立ち行かないような仕組みになってしまっているからである。お山の大将がいなければ困ってしまう社会になっているのである。それは、現在の世界にはアメリカの経済力、政治力、軍事力に頼らなければ解決できない問題が数多く存在するという理由だけではない。それ以上に、構造的に、多くの人たちが「アメリカ的なるもの」が生み出す果実(「自由な社会」や「繁栄」)に憧れ、あるいはそれを希求し、またそれを実現している(と信じられている)存在に寄りかかって生きている(もっと言えば、むしろそれを望んでいる)ということなのである。 もちろん様々な局面において個々人がその信念や信条に基づいて選択するなかに、「アメリカ的なるもの」を受け入れたり拒否したりすることはあるだろうし、アマルティア・センが指摘しているように、「自由」で「繁栄」した社会が個人の幸福や「生きやすさ」を必ずしも保証するものではないのも当然のことである。しかしながら、現在多くの国々は「アメリカ的なるもの」(とりわけ経済的な側面のそれ)を多かれ少なかれ目指した社会作りの方向に動いているのではないだろうか。そうだすると、なおさら、お山の大将たるアメリカを相対化していく作業は難しくならざるをえない。 しかし、そうした矛盾を抱えながらも、アメリカを絶対的な存在においておくときに生じる計り知れないコストを考えるならば、なにかしらの手を打たなければならないのもまた確かである。そうすると、できることなら、アメリカには物わかりの良いお山の大将になってもらうしかないのである。 ところが今のところ、自分だけが正しく、唯一の真実を語ることができるという《無謬性への信念》に基づいて形作られた「閉じた社会」(K・ポパー)であるアメリカを容易く変えていけるような方策は、少なくとも僕には見あたらない。問題はアメリカを無視して済むような単純なものではないし、かと言って、そういう社会を無理にこじ開けようとすると、そこに待ち受けているのは、おそらく戦争(武力行使)という破壊的行為とその結果生じるどちらか(あるいは両方)の社会の破滅しかないからである。閉じた論理に立ち向かうとき、もうひとつ別の閉じた論理を持ち出すのは有効な手段ではない。むしろそうした態度は、この世界に新たな《無謬性への信念》を生み出すだけである。これは、「どちらが本当に正しいか」という問題ではないのだ。 そうすると、ひとつここで考えうる手段は、閉じた論理の体系を「探求と批判精神の光に照らすことで解きほぐす努力」(U・エーコ)を気長に実践してくということのように思われる。日本とは桁違いの強い信念に支えられた《アメリカ》が、少しぐらい見なれない光に照らされたからといってその形を変えるようなことはないというのは分かりきっている。それに、世界中の人間がこぞって強い光を当て続ければ、「日焼け対策」を施されてしまうようなことにもなりかねない。そうした問題を頭に置きつつ、それでもなお、内なる変化によって《アメリカ》が開かれていくことを期待しつつ、程よい光を当て続けていくことが、もっとも生産的な手段ではないかと思う。 では、具体的には何をするのか。個々人の日常の範囲で、アメリカを全肯定するのでも全否定するのでもなく、「光」を当てる実践を積み重ねていくことだと思う。その手段はひとりひとりが考え、選択してくことだと思うが、僕は平和にかんする「開かれた論理」を作っていくことに力を注ぎたい(このホームページの制作者も彼なりの手段によってそうした実践しているひとりだと思う)。こうした行為によって成果を得るには、何世紀という膨大な時間がかかるかもしれないし、そもそもそれを続けたからといって、アメリカが「開かれた社会」になる保証があるわけでもない。さらに、そういう「悠長なこと」を言っている間にも、閉じた論理によって世界のいたるところで《非平和》が新たに生み出され、またその状態が進行しているという現実が存在することも認識している。しかし僕には、それ以外の手っ取り早い方法などは思い浮かばないし、もちろん、「何もしない」という選択もしたくない。お山の大将の行く末が、多くの人間にとって幸福をもたらすようになることを願いつつ、僕の実践を続けていきたい。
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