ブラッドフォード大学大学院 体験記
(MA in Peace Studies, University of Bradford)

エケケイリア(オリンピック停戦)


先日からメディアはオリンピックづけ。テレビも新聞もメダルの行方を追い続けている。日本勢が活躍しているのを見るとやっぱり嬉しい。西洋人に比べると体格差がまだまだあるにもかかわらず、こういう場で活躍できる人はすごいと思う。

しかし、報道の仕方には疑問を感じざるを得ない。すべての番組は冷静さを失っており、何かにつけて一喜一憂している。選手の試合内容等をそのまま放映しているときはいいのだが、タレントやアナウンサーの稚拙なコメントには辟易する。すべての新聞はスポーツ新聞と化している。オリンピックシーズンにオリンピック特集をするのは構わないが、その他の報道をおろそかにするのは視聴者/読者を馬鹿にしている。いつもと同じような紙面を提供しつつ、第二部などでオリンッピック特集を組めばいいではないか。民放と同じように新聞各社も連合で特集紙面を組めばいい。どうせ「日本、勝った、負けた」ぐらいのことしか書いてないし、各社で論調の違いなどほとんどないのだから。そうすればたくさんの記者やスペースを浪費する必要もなくなる。

オリンピックは「平和の祭典」と言われる。エケケイリア(オリンピック停戦)という言葉があり、開催期間中は紛争当事者に戦争の停止を求めるということを意味している。国連のページではその功績が示されているが、果たして今回のオリンピックではエケケイリアの実現に向けてどのような努力がなされたか、そしてどのような結果になっているか。テロとの戦いの中心になっていて各国を扇動しているアメリカはイラクでの攻撃をやめていない。アテネオリンピック中にさらに何名の人を殺すのだろうか。また、その他の紛争地でもオリンピック停戦に関するなんらかの努力が行われていると言う話は伝わってこない。紛争の当事者からしたら、自分たちが大変な思いをしているのに悠長にオリンピックをやっている連中をどう考えるだろうか。「平和の祭典」のために戦争を止めろと言われたからといって止められるものではない。紛争当事国同士は猜疑心を抱きあっており、停戦はオリンピックだから得られるものではなく、その猜疑心が晴れ、過去を和解できたときにのみ得られる。たとえ、数日間「オリンピック委員会の働きかけにより」戦争を休んだからといって実質的に何の意味があるだろう。エケケイリアは紛争に無関係な国の勝手な論理に過ぎない。

オリンピックには出たくても出られない人たちがいる。オリンピックにはほとんど関心のない国もある(フィリピンなど:世界日報社(2004)[World News Mail 8/17]参照)。オリンピックは全人類の祭典ではなく、一部の人だけが楽しんでいるお祭り騒ぎに過ぎない。僕は日本人が活躍しているのを見ると嬉しいが、その感情は日本という「国」を代表した人が活躍したからではなく、(世界の他の地域に比べると)近所の人が活躍したからという理由で嬉しい。国別メダル数だとかにはほとんど関心はない。
国別でメダルを争うと言う視点は、オリンピックを国と言う単位で見る、現在では極めて常識的だが、実は極めて狭量なものの見方である。この見方を継続する限り、オリンピックやスポーツはいつまでも政治の道具として使われる。オリンピックの経済的な効果は否定しないが、平和にはあまり貢献しそうにない。

 

参考記事(8月20日追加)

◆オリンピックの国、ギリシャ(仏紙「ルモンド」 2004年8月9日 世界日報社 [The World News Mail 8/20] より)

 欧州連合(EU)に加盟、ユーロ圏に加わるギリシャは、それによって新たな繁栄と国の誇り、あるいはそれ以上に国際共同体で果たす新たな役割の保証を得ている。大方の予想を裏切って、ギリシャは最近の欧州サッカー選手権大会で優勝を勝ち取ってもいるではないか。
 今回のオリンピックでギリシャは、少々大きなことを考え過ぎて、大会ごとに過度になる設備の技術的な困難を過小評価したかもしれない。大なり小なり魔術のように整備された設備が、すべて順調かどうかの評価は開会直後まで待たねばなるまい。そこには多分、現代ギリシャの真髄がある。
 競技は遺憾ながらアテネがそれで有名な、厚い大気汚染に覆われて進行するにせよ、世界数10億のテレビ視聴者に中継されるこれらのスポーツ行事は、ギリシャ共和国への活力にあふれた賛辞となるだろう。それにしても、大会が警備の大動員で色あせることは事実だ
 9.11テロからほぼ3年、米国のたっての求めもあり、ギリシャはそれこそ、とりでを築いた。北大西洋条約機構(NATO)に要請して空海からの特別態勢も確保した。これと並んで、一部の国はオリンピック史上初めて、自国チーム保護のため武装警備員を配備することになろう。
 今はもう、五輪精神が休戦の象徴だった時代ではない。嘆かわしい限りだ。今日の五輪大会のような大規模な競技が呼び起こす過度のナショナリズムについても、同じことが言える。
 だがこの狂信的愛国心も今に始まることではない。1896年大会で既に、ナショナリズム病理に屈する前の仏右翼政治理論家、シャルル・モーラスは自分の新聞にこう電文記事を書き送っている。
 「競技場内のまやかしの世界主義は、ナショナリズムの情熱を吹き消すどころか、募らせるばかりだ


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