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ユーラシア大陸横断(酒の旅)
NASTAROVIA!
軟禁
旅をしていて危険な目に遭うことはそれほど多くない。確率的にはかなり低いだろう。もちろん、最低限の注意は常に怠らないつもりではいるので、旅先で犯罪に巻き込まれたという話を聞くと、その人の不注意が原因の全てではないかと考えていた。また、心のどこかに、「自分だけは大丈夫」だという気持ちがあった。
学生時代、アジアを20ヶ国ほど旅した。友人などからはよく、「危ないんじゃないの?」などと言われることもあったが、自分としては十分注意を払っていたし、危ない目に遭うほど不運ではないと信じていた。
ポーランドのクラクフという町で、一人の旅行者と話をする機会があった。その晩僕は夜行列車でプラハに向かう予定をしていたが、そのことを話すと、彼はこうつぶやいた。
「プラハ行きの夜行列車は危ないらしいですよ。よく強盗が出るみたい。僕も明後日プラハに行くんですが、そういう話を聞いていたので朝の便で行くつもりです」
この話を聞いたとき、当然だがいい気分はしなかった。嫌な話を聞いたなと思った。十分に注意を払うのであれば、予定していた列車をキャンセルし、翌朝の便でプラハに行くこともできた。しかし、自分に災難がふりかかるとは全く想像できないし、プラハでは友人が待っており、友人との再会は少しでも早く実現させたかった。
22時半、列車は僕を乗せて、クラクフを出発した。
列車は不気味なほどすいていた。6人用のコンパートメントを一人で独占して使うことができた。十分に足を伸ばして眠ることができ、快適すぎる列車の旅であった。
真夜中にポーランドとチェコの国境を通過する午前1時ごろ、イミグレーションのオフィサーに叩き起こされた。10分ほどで手続きを終え、「おやすみ」との言葉をもらった。そして再び深い眠りに落ちた。
午前3時。
ふと目を覚ますと、コンパートメントの中には僕以外に4人の男がいた。いつの間にか乗客が増えたんだな、などと思いながら反射的に挨拶する。
「おっと、ごめんよ、席を独占してしまって」
そう謝りながら会話を続けようとすると、4人はさっとコンパートメントから去ってしまった。起き抜けでよく状況が掴めなかったが、なんだか変な感じがした。ふとウェストポーチを見ると、カメラを入れてあるポケットのチャックが半分開けられていた。
「しまった!」
その4人は置き引きだったのだ。突然の状況にパニックになりながらも、自分の持ち物を確認した。カメラ、財布、パスポート…。大事なものは全てあった。リュックサックもある。どうやら被害はゼロのようだ。目を覚ましてよかった。。。
持物が無事であることを確認すると、ほっとした反面、怒りが込み上げてきた。4人組をとっちめてやろうと思い、コンパートメントから離れていく4人に、後ろから怒鳴りつけた。
「この野郎。ちょっと待ちやがれ」
静かな車内に、声は大きく響いた。次の瞬間、4人がこちらに向かってきた。自分たちの犯罪が車内の他の乗客や車掌に知れ渡ることを恐れたからだろう。必死の形相で迫ってくる彼らから逃れるため、僕はコンパートメントに入り込み、内側からドアを押さえつけた。
しばらくの間、彼らはドアを開けようとし、必死の攻防が繰り広げられたが、あたりに音が響くためか、力ずくで開けるのをやめた。その代わり、部屋の外に2人が待機し、中にいる僕を監視し始めた。外に出て、誰かに通報しないよう見張っているという感じだ。
恐怖で体が震えた。軟禁状態である。これ以上刺激すると何をされるかわからない。コンパートメントのドアだけが、かろうじて僕を守ってくれていた。
約30分後、列車が次の駅に到着し、強盗団は逃げ去った。その後すぐに車掌に状況を説明したが、言葉が通じず、説明をしきれなかった。実質的被害がなかったので良いようなものの、自分の身は自分で守らなければならないことを実体験により痛感した。
思えばいろいろな面で油断をしていた。最低限の注意は払っているつもりであったが、リスクを避けることよりも、自分の身には危険が起こり得ないということを過信していた。
今回、「運良く」このような事件に巻き込まれたお陰で、また一つ学ぶことができた。安全管理は旅を楽しむための必要条件であり、旅をする者が守るべき最低限のマナーでもあるから。

再会
雲ひとつない素晴らしい朝。
悪夢のような夜行列車の旅を終え、プラハに到着した。
早速、約束していた友人に電話をした。5年ぶりに声を聞いたが、すぐに本人だと判別できた。あまりの懐かしさに、なかなか言葉が出なかったが、とにかくプラハ中央駅で待ち合わせをすることにした。
「10分後に行くよ」との言葉をもらい、電話を切ったが、約束通りの時間に来ないのはご愛嬌。約1時間後に再会を果たした。
固い握手を交わす。5年前に別れを告げたときの記憶を思い出した。とあるゲストハウスの前で偶然出会い、空室が一つしかなかったことと、お互いの金銭的な都合により、部屋をシェアすることになった。滞在は一週間にもおよび、その間二人でいくつかの観光地に足を運び、朝から晩までたくさんの話をした。その場所とは、イランのイスファハンだった。
旅の出会いは不思議である。たまたまその場所に居合わせることが、その発端となるが、必ずしも話をするとは限らない。また、話し掛けたとしても、話が続くとは限らないし、仲良くなるとは限らない。さらに、仮に連絡先を教えあったとしても、必ずしも連絡を取り合うわけでもないし、連絡を取り合っても、それが続くわけではない。
こうした意味で、旅で出会った友人と再会するのはなかなか難しいことで、稀なことである。出会った人の数から比べると、再会する人の数は天文学的に少ない。だからこそ、連絡を取り続けた友というのは「奇跡的な出会いをした」と感じられるし、再会の感動は筆舌に尽くし難い。
プラハの友人ヤンと連絡が続いたのも不思議な縁があった結果だ。
一週間部屋をシェアし、その間に様々な経験をシェアした。偶然にも著名な宗教家と知り合い、世界遺産にも指定されている有名なモスクでイスラム教徒達と一緒に礼拝をすることもできたし、イラン人家庭に招かれ、ペルシャ料理をごちそうになったこともあった。しかし、旅先で同じように経験をシェアした人など他にもたくさんいる。
ヤンと連絡を取り続けることができたのは、もう一つ理由があった。それは僕自身の両親がヤンに会ったためだ。僕がイランから帰国して4ヶ月ほど後、両親が東欧を旅行することになった。プラハにも寄るという話を聞いたとき、僕はそこに親しい友人がいるから時間があれば電話でもして「よろしく」と伝えてほしいと言っておいた。
軽い気持ちの一言だったが、国際交流歴の長い両親はプラハにてせっかくの機会だからと、ヤンに連絡をした。ヤンは時間を見つけて両親にプラハの町を案内してくれたらしい。
そんなこともあり、僕は以来5年間、折に触れて「ヤンは元気?」と両親に聞かれた。僕はマメな人間ではないが、こうした言葉に動かされて、何度か旅先などから手紙を書いた。それに応えて、ときどきヤンも連絡をくれた。
長い握手を終え、ヤンの家に向かった。5年間の出来事を互いに報告しながらトラムに揺られた。二人とも興奮していた。話は尽きなかった。
ヤンの家でシャワーを浴びた後、プラハの町を案内してもらうことになった。出かける前に昼ご飯を近くの店で食べることにした。
食事と一緒にビールを頼んだ。ヤンと酒を飲むのは初めてだった。イランは禁酒国であるため、前回は一週間も一緒にいながら一度も酒盃をかわすことがなかった。5年経った今、僕らは全く違う状況にいた。僕らは世界で一番うまいビールを誇る国、チェコにいた。再会を祝して初めての乾杯をすると、二人のジョッキはあっという間に空になった。
ビールを飲み始めると、トラムで始またお互いの近況報告を再開した。ヤンはこの5年間で7回も旧ソ連を旅していたし、僕はインド洋を船で渡った。二人が共通して訪れたことのある国はイランとチェコのみであったが、旅に対する考え方が驚くほど似ており、それぞれが各地で遭遇した出来事は、お互いを十分に楽しませた。気が付くと7時間が経過しており、ビールは日本円にして一杯約30円なのにのに、会計は1000円を超えていた。
「あれ?プラハを観光する時間がなくなったなぁ」
僕がこうつぶやくと、満面の笑みでヤンが答えた。
「何を言ってるんだ。この状況こそが、プラハさ」
その後、日付が変わる頃まで、僕らはプラハを満喫した。
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イスファハンのモスクで祈祷

Janとの再会
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